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和歌にも詠まれた「望月の駒」の由来と遺跡を訪ねる

「望月の牧(まき)」、あるいは「望月の駒(こま)」という名前を聞いたことはありますか?

現在「御牧が原」と呼ばれているエリアを「望月の牧」、そこで育てられて朝廷に献上された馬を「望月の駒」といいました。

長野県佐久市旧望月町や、長野県東御市旧御牧村のあたりには古代、雄大な牧場が広がっていました。朝廷に献上する馬を養成する牧場を「御牧(みまき)」と呼びます。御牧の地名は古代の朝廷直轄の牧場があったことを示しています。御牧原は平安時代から鎌倉時代の初めまで、400年以上も朝廷の馬を養成した場所だったのです。

今回は「望月の牧」をテーマにその由来と遺跡をご紹介します!

古墳時代より長野県は軍馬の生産地だった!

長野県で軍馬が育てられ始めたのは古墳時代中期(5世紀)、ヤマト王権の時代まで遡ります。古来の日本にいたウマは小柄で軍馬には不向きでした。そこで朝鮮半島から馬を輸入し、繁殖・飼育の技術を持つ高麗人を招聘したのです。

この時に軍馬の生産地として信濃国が選ばれ、望月のほか、現在の中野市から伊那市にかけて広範囲に「牧(軍馬の飼育を目的とする牧場)」が出来ました。大化の改新を経て700年には律令政府の管理する官設の「国牧」となったのです。

さらに768年には朝廷が管理する「御牧(勅旨牧)」が設置され、国牧はこれに吸収されていきました。御牧はこの後甲斐国、上野国、武蔵国にも設置されましたが、信濃国は中でも最大規模を誇り、最重要生産地であったことがうかがえます。

「望月の牧」の由来は?満月の日に献上された

望月支所

信濃国の「御牧」はなぜ「望月の牧」と呼ばれるようになったのでしょうか?

「望月」は信濃の御馬の献上日が8月15日の満月の日に行われたことに由来します。いつしか「望月牧」という名称が文献に使われ出し、地名にもなったといわれています。

この御料牧場は「御牧(みまき)」と呼び、当時甲斐国に三牧・武蔵国に四牧・信濃国十六牧、併せて二十三牧あったが、この望月牧はその規模が雄大で、この地から算出された馬は駿馬「望月の駒」として全国に知られていた。
 望月牧の献馬(朝廷に奉納する優良馬)は年二〇頭であったが、一頭の献馬は二〇~三〇頭の中から選んだといわれる。したがってこの牧場では六〇〇~七〇〇頭が常時飼育されていたのである。
 牧場は、北東を千曲川、西を鹿曲川に囲まれた台地全域と、南は瓜生坂・入布施・矢島原に及び、その面積は一千町歩を超えている。

野馬除けの看板より引用

都に献上された馬を逢坂山で迎える行事を「駒迎(こまむかえ)」、その馬を宮中で披露する行事を「駒牽(こまひき)」とよび、秋の風物詩でありました。

「望月の駒」といえば、紀貫之の歌も有名ですね。

逢坂の関の清水にかげ見えていまや引くらむ望月の駒
(意訳:逢坂の関に行くと、関の清水に満月の影が見える。今ごろひいているのだろうか、望月の駒を。)

平安時代にはこのように「望月の駒」を使った和歌が多数詠われています。信濃国の望月ではなく、逢坂山の駒迎や駒牽を詠んだものがほとんどですね。こうして「望月の駒」の名は秋の歌枕として広く世に知られることとなるのです。

野馬除の跡が残る

浅間山をバックに

「望月牧」の面影を残す遺跡に長野県東御市旧御牧村の「野馬除(のまよけ)」があります。馬が逃げないように土手を作り柵を設け、手前には溝を作っていたようです。この柵は断崖などの自然の障壁以外の場所、およそ38km以上にわたってつられました。

実は「望月牧」がいつ頃発生し、どのように衰退したのかはまだ詳しく分かっていません。「野馬除」もまだ発掘段階ではありますが、東御市を中心にいくつか遺跡が見つかっています。

▼実際に行ってみたけれど、どれのことを指しているのかいまいち分かりませんでした・・!

民話「望月の駒」地元に伝わる哀しいお話

「望月の駒」というと、地元の方には下のような民話が思い浮かばれるかもしれません。初めて読んだお話でしたが、中野市に伝わる「黒姫物語」を思い出しました。どこかで混ざったのでしょうか?

その昔、望月の牧(まき)は朝廷(ちょうてい)へさし出す馬の産地(さんち)として名高いところでした。
ある年、望月のとの様の館(やかた)に一人のむすめが生まれました。同じ日に、牧の馬屋で月毛の駒が生まれました。
「同じ日に、姫(ひめ)と駒が生まれるとはまことにめでたいことじゃ。姫は生駒(いこま)姫と名づけようぞ!」との様はたいそう喜びました。
やがて、姫は山にさくユリのようにりりしく美しく育ち、月毛の駒は美しい毛なみのたくましい駒になりました。姫のうわさ、駒のうわさは四方に広がりました。
姫が十三才をむかえたある日、うわさを聞いた都の帝(みかど)からおめしがありました。「わが牧の姫に帝のおめしじゃ。わが牧も栄(さか)えるというものよ」喜びにわく館とはうらはらに、月毛は馬屋にふしたまま、かいばを食べなくなってしまいました。
「望月一番の駒が病とは一大事」と手をつくしてみましたが、いっこうに良くなりません。そこで、浅間(あさま)の行者にうらなってもらったところ、「生駒姫にこいしているのじゃ」というのです。
「帝にめされた姫に思いをよせるとはけしからん」との様はたいへんなはらだちよう。ところが姫は、「わたしは月毛とともに、この自然(しぜん)の中でくらしとうございます」というのでした。
困りはてたとの様は、月毛にあきらめさせるために、難題(なんだい)をもちかけました。「もし、鐘(かね)が四つ(十時)から九つ(十二時)を打つまでの間に、領内を三たびめぐりおえるならば、姫をあげよう」というのです。
これを聞いた月毛は勇み立ちました。四つの鐘とともにかけ出した月毛は矢のように領内を走りぬけました。一たび、ニたび。そしてまだ九つには間があるというのに、三たびめぐり終えるところまで来ました。
その時、鳴るはずのない九つの鐘がひびきわたりました。それを聞くと、むねもさけるばかり、足もおれるばかりにかけめぐってきた月毛は身もだえしながら、谷底へまっさかさまに落ちていきました。
との様は「これでやっかいばらいもできたというもの。姫も都へ上がるであろう」と、苦々しくわらいました。ところが、月毛の死を聞いた生駒姫は、都へ上るどころか長いかみをぷっちりたち切って、尼(あま)になってしまったということです。

長野県公式HPより引用

生駒姫と望月の駒の、哀しい恋物語ですね。望月歴史民俗資料館に絵本も売られていましたよ。

望月歴史民俗資料館へ立ち寄ろう

佐久市立望月歴史民俗資料館

望月の歴史や民俗について学ぶなら、佐久市立 望月歴史民俗資料館にも訪れたいところ。中山道 望月宿の本陣跡となりにあり、旧石器時代の遺跡から昭和時代の生活具までさまざまな史料が展示されています。

参考文献

『佐久市立 望月歴史民俗資料館 展示・収蔵資料 図録』

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