さて、「平成」の時代が幕を下ろし、「令和」という新しい時代の扉が開かれましたね。そこで今回、令和第1号のおざわっぷるSkima記事をご覧いただいているみなさまにも、ちょっと「新しい扉」を開けていただきたく。
禅や漢学を学び、中国の文人たちとも交流する傍ら、酒をこよなく愛しつつ、四国八十八ヶ所の霊場を行脚。書家として初めて日本芸術院賞を受賞するなど、戦後の書道界を終生リードする輝かしい経歴。
その裏に、ある時は酒を飲み、酒で墨をとき一気呵成に作品を仕上げ、またある時はふすまや障子に作品を書くなど、常人離れしたエピソードも多数。5歳にして傑作を残し、若き日に中国に渡り書を極め、86歳でその天衣無縫な人生に幕を閉じる直前まで筆を握り続けた、漢詩人にして天才書家。まさしく生涯筆一本に生きた人物がいました。
長野市、篠ノ井に。
というわけで、今回の旅の舞台は長野市の篠ノ井エリアです。篠ノ井駅の扉を開けて、東口からいざ、徒歩でスタートします!
駅を降りると、ロータリーから目抜き通りが延びています。
ロータリーの入口に、なにやら石柱のようなものがありますね。
一体何なんでしょう?
「書道の町 篠ノ井」?
…、やま?さん?、かん??
篠ノ井駅前で史跡散策
「驥山館」と書いて「きざんかん」と読みます。
篠ノ井で暮らした川村驥山(きざん)という書家の作品を管理・展示している美術館が、この先にあります。
その前に、ちょっと寄り道したいところがあるのです。
布施村役場跡
広い通りの脇に路地が延びています。
狭ーい路地の奥にスナックがあるという、何となく昭和な雰囲気が残されている空間ですね。
ところで、この画像の中に石碑があるのですが、見つかりますか?
「布施村役場」とあります。
篠ノ井駅周辺は、かつて「布施村」という村でした。その村役場や郵便局などがここにあったのですね。
ご安心ください、上の画像で石碑の場所がわからなくても無理はありません。もっと言うと、行ってもすぐに見つからなくてもまったく不思議ではありません。こんなところにポツンと!という驚きもあるので、ぜひ勇気を持ってウロウロしてみましょう。
次に、もう1ヶ所。
篠ノ井町道路元標
さて、目抜き通りに戻ってまっすぐ進むと、斜めに道が横切る、ちょっと変わった形の交差点が見えてきました。
また何かありますねぇ。
今度は見つけられたでしょうか。更級(さらしな)郡篠ノ井町道路…
道路…
道路元!
本当は「更級郡篠ノ井町道路元標」と書かれているはずです。
さて、「篠ノ井町」と刻まれていますが、これは布施村の次の時代の名前です。布施村は大正時代に町制を施行し、その時に「篠ノ井町」と改称されました。
そして、「道路元標」とは道路の起点や終点を示す標識のこと。当時の布施村や篠ノ井町にとって、ここは交通上の特に重要なポイントだったのでしょう。
さあ、交差点を左斜め前へ、いざ行かん驥山館。
すぐに次の交差点があるのですが、困ったことに、ここには「驥山館」と書かれた矢印型の石柱が見当たらないのです…。向かいの角のお店が屋根を張り出している、左側の道路が何となくメインの通りのように見えますね。行ってみましょう!
実はこの道、かつて北国街道として賑わった、まさにメインストリートだった道なのです。
交通の要衝・篠ノ井の歴史と今
今回の目的地、驥山館方面へ旧北国街道を歩きながら、ここまでの旅路をちょっと振り返ってみたいと思います。
篠ノ井駅の東口を降り、目抜き通りを東へ直進。独特の形状をした五叉路を左斜め前へ進み、地図の赤ピンの位置まで来ました。
実は先ほど通ったこの交差点、画像には写ってないのですが、左右にも道が延びて五叉路になっています。画像の右側から左斜め前へ横切るのが、旧北国街道。つまりこの交差点は、篠ノ井駅の目抜き通りと旧北国街道が交わる、交通の重要ポイントだったのです。
鉄道駅と旧街道の間にある史跡を振り返る
篠ノ井駅は明治21年(1888年)に開業しました。その翌年、明治22年(1889年)に布施五明(ごみょう)村と布施高田村が合併して布施村となります。
駅のそばに「布施村役場跡」の碑がありましたが、篠ノ井駅がある場所は、開業当初は布施高田村の西の端でした。それが西側の布施五明村と合併することによって、布施村の中央部となります。
村の真ん中、駅のそば、それに旧北国街道も近い。そういったアクセスの良さから、村役場が駅の近くの目抜き通り沿いに設置されたことと想像されます。
その後、大正3年(1914年)に布施村は篠ノ井町となります。
目抜き通りと旧北国街道の交差点に「更級郡篠ノ井町道路元標」がありました。これは大正時代に、全国の各市町村の中心部に1個ずつ設置されたものの1つです。
ちなみに、道路元標は形や材料などが法律で細かく規定されていたので、みなさまのまちにも同様のものがあるかもしれません!駅のそばに役場跡碑、そして旧街道と目抜き通りの交差点に道路元標。どちらも小さいけれど当時の賑わいを思い浮かべさせ、時代の流れを感じさせてくれる、歴史の痕跡、立派な史跡です。
合戦地や街道の分岐点としての歴史
さて、駅前に布施村役場が出来て賑わっていた頃からさかのぼること約350年、この周辺は「川中島の戦い」の舞台でした。武田対上杉の4度に渡る戦いのうち、第一次合戦の地は現在の篠ノ井駅付近。その名も「布施の戦い」。
善光寺方面、松本方面、佐久方面と道が分かれる場所なので、古くから交通の要衝であり、戦略上も重要視されていたのです。
その後、江戸時代に入り、北国街道と善光寺街道の分岐点として栄えたのが篠ノ井追分。やがて明治の世になり、篠ノ井追分から少し北に設けられたのが篠ノ井駅です。
篠ノ井駅に引き継がれる交通の要衝DNA
篠ノ井の「交通の要衝」っぷりは、現代にも引き継がれています。
JR東日本・しなの鉄道篠ノ井駅に。
北へはJR信越本線やしなの鉄道で長野駅方面へ。南東へはしなの鉄道で上田・軽井沢方面へ。南へはJR篠ノ井線で松本・木曽・諏訪方面へ直通。特急列車もすべて停まり、北信から東信、中信、南信へと向かう要となっています。
新幹線は在来線に並んで通過するのみですが、長野駅を下車して乗り換え、各駅停車で15分ほどです。
篠ノ井駅は長野市内にある駅なので、市のメイン駅ではありません。にもかかわらず、JR東日本長野支社の管内の駅(新幹線駅を含む)としては、長野駅、松本駅に次いで利用者数第3位を誇ります。
いつの時代も、人が行き交い賑わい続けるまちです。
旧北国街道を歩いて驥山館へ行こう
さて、とりあえず歩いて行くと、あれがちゃんと見つかります。
先ほど立ち止まった交差点から少し進んだ角。屋根が道路側に張り出す、旧街道沿いによく見られる商家の造りがそのまま残る家屋の向かいに、ありました、矢印石柱。
この先にも置かれている予感がするので、安心して歩けます。
電柱に看板が。わかりやすいですね。
右へ曲がればもうすぐです。
おっと、ちゃんとありますね。
ありがたい石柱たちの言うとおりに進みます。
旧北国街道を離れて直進。
向って左側、北側に「驥山館」が見えてきます。
さあ開こう、書への扉を
ところで、「書道展」と聞くと少々堅いような、味わい方が難しいような印象があるのではないでしょうか。美術館巡りに慣れている人でも、同じ感覚でサクッと、とはなかなかならないように思われます。
「驥山館」は、そんなハードルをポイッと取っ払ってくれます。むしろ、格式というハードルはきちんと高くても「別に飛び越えなくたっていいんだよ、くぐっちまえば」と言われているような感覚に、私はなりました。
誰に?もちろん驥山先生に。天国から「ガハハハ」と笑われながら(勝手な想像です)。
驥山館と川村驥山
「驥山館(きざんかん)」は、書家・川村驥山(明治15(1882)ー昭和44(1969))の作品を中心に収蔵・展示する、書道専門の美術館です。
川村驥山(本名:慎一郎)は静岡県袋井市に生まれ、3歳から漢学や書を習い、明治27年(1894年)には12歳にして明治天皇皇后の銀婚式に書を献上し、天才少年書家の名声を全国に轟かせます。
昭和20年(1945年)、63歳の時に篠ノ井に疎開し、以後この地で生涯を送ることになります。
昭和26年(1951年)には書道界初の日本芸術院賞を受賞。昭和35年(1960年)には篠ノ井名誉市民となり、昭和37年(1962年)、80歳の時に「驥山館」が開館しました。
昭和44年(1969年)、86歳で没。葬儀は当時の長野県知事・西澤権一郎氏が葬儀委員長を務め、長野市名誉市民葬儀が営まれました。
また、時には泥酔しながら酒で墨をとき一気呵成に作品を仕上げるなど、無類の酒好きでもありました。天才書家ながら「酒仙」とも呼ばれています。
驥山館には、川村驥山の5歳の傑作から86歳の絶筆までが展示されています。
驥山館へのアクセス・開館案内
おざわっぷるおすすめは「駅トホ」ですが、もちろん車でも割と好アクセスです。
■アクセス
電車:篠ノ井駅より徒歩約10分
自動車:長野自動車道更埴ICより約10分、駐車場約10台
■開館案内
開館時間:10:00~16:30
休館日:月曜日、祝日の翌日、12/28~1/4、3/21~3/31
■入館料
一般:500円 小中高:300円 ※20名以上は2割引
■公式サイト
驥山館 - HomePage –
駐車場は2箇所あります。
県道77号線から狭い道に入ると、看板が見えてきます。
こちらが広い方。
奥の狭い通路から、前庭を通って建物へと通じています。
もう1箇所。こちらの方が県道から近いですが、少し狭いです。車が1台もないと停めていいのか不安になるかもしれませんが、ご安心ください、停めてOKです(笑)そして、安心してください、驥山館、ちゃんと開いてます。
扉を開けるのはあなた自身
さあ、驥山館に到着しました!
…
いやいや、まさか。休館日ではないはず。
…
おや、あれは。
…
いやいや、まさか。こんな美術館…
「ピンポーン」
…
「ピンポーン」
…
2分ほど待ちましたが、何の反応もありませんでした。ウェブサイトでは案内していない、何か特別な休みなのかもしれない。それにサイトのコピーライトも何年か前のままだったし、もしかしたらここはもう…
と、諦めかけたその時、「今開けますねー」と声が。
庭の方から、ここを管理していると思われるおばあさんが登場しました。
おざわっぷる:閉まってるのかと思いました!
おばあさん:いつも人が来ないから閉めてるんです。今電気付けますからね。
建物の中にスタッフも誰も常駐しないシステム、斬新!
しかし、かつてはおそらく普通に開館し、それなりに入館者もあったことでしょう。
しばらくして、おばあさんが内側から扉の鍵を開けてくれました。こんな美術館初めてです。おばあさんがしゃがんで鍵を開ける瞬間を写真に撮りたかったです。
扉を開けた者だけが体験する、おばあさんとのコミュニケーション
無事に中に入れていただき、チケットを買おうとしていると、受付カウンターの中からおばあさんがご芳名帳らしきものを開き、私の前に差し出しました。
さも当然、と言わんばかりに私が書くのを待っている様子で、そういうものなのかと、とりあえず書きました。(この謎は後ほど自己解決します)
さて、記帳を済ませた後も、おばあさんはずっと無言の笑顔でニコニコしています。どうやら私が入館料を払うのを待っていたようです。独特の間が少し気まずかったです(笑)
ところで、首からカメラを提げながら書家の美術館の呼び鈴を鳴らした謎の人間に対し、注意事項も何も言わないおばあさん。
念のため、カメラを手に持ちながら「撮影は禁止ですか?」と聞くと、「特にそのような決まりは設けておりません」と。
っしゃあ記事に使える!ですがフラッシュを使わない程度のマナーはなんとなく持ち合わせようかと思いました。紙と墨なので、作品の保存上は絵画ほどデリケートではなさそうですが。
受付の前はこんな感じ。展示室は2階です。
冒頭で「ちょっと『扉』を開けていただきたく」と申しましたが、この入口の扉で諦めてしまうかどうかで、このおばあさんとの交流のほか、この先に広がる見事な世界を体験できるかどうかが分かれます。
是非とも勇気を持って、そして扉は開くと信じて、呼び鈴をポチッとしてみてください。
壁には書と、驥山先生の肖像画も。
階段の上にも書が展示されています。
朝から夜まで飲み続けたのちに書き、書き終わるや毛氈(もうせん:書道用の下敷き)の上で一昼夜寝たという、いきなり書へのハードル崩壊エピソード。期待しかありません。
後ろを向くと、展示室への入口。扉はもう開かれています。
展示室内ピックアップ:驥山先生礼賛
ガラスケース内に掛軸や屏風がずらーり。代表的・特徴的なものだけピックアップさせていただきます。
先生と長女の川村佩玉(はいぎょく)さんの写真。佩玉さんも書家で、驥山館の初代館長でもあります。
その下には勲三等瑞宝章の賞状。
5歳の傑作「大丈夫」。
病床にあり本領発揮出来なかった時の作品が、書道界初の日本芸術院賞を受賞。
作品を眺めるだけで心躍らされ、キャプションを読むだけで様子が目に浮かびます。この酔っ払いの天才が!
昭和23年(1948年)に取材された雑誌「アサヒグラフ」。ちなみにカメラマンは長野市松代出身の島田謹介氏という方。
こういうところを撮らせるお茶目さ。
残りの墨で古い障子紙に練習のつもりで書いたものが作品に。
作品を眺めながら、書ってその人の人格も、またその時の体調や気分も出るものなんだなぁと感じさせられます。
ふと、受付での出来事を思い出し、納得しました。無言でご芳名帳を差し出された時のことです。文字はその時その瞬間のその人そのもの。同じ人が同じ文字を書いても、次に書く時はきっと少し違う。だからここでは入館時に「今、自分が何者か」を「書」で表明することがマナーなのかもしれない。そんなふうに思いました。
紙そのものが200年以上前に中国で作られた文化財。よく見ると絵が入っています。その上へ、驥山は書いてしまうんですね。
こちらは85歳の「大丈夫」。5歳の「大丈夫」にはかなわないと、本人談。
愛用の筆なども展示されていました。
昭和40年(1965年)に奥様を亡くされてから急激に憔悴され、その4年後、昭和44年(1969年)、満86歳で逝去されました。亡くなる5ヶ月程前に書かれた「心」が絶筆となりました。
周辺に心地よく馴染む前庭
贅沢な展示室を贅沢にも独り占めさせていただきました。私一人のために展示室の電気をつけてくれるなど!しかし、入口でおばあさんをずっと待たせてしまっているかもしれません。
ところが、入口に戻ると受付は暗く、誰もいません。
どうしたものかとウロウロしていると、まるでコンビニのように何度かチャイムが鳴りました。これで誰かが来たことをおばあさんに知らせているようです。
しばらくするとおばあさんがやって来て、私が外へ出ると戸締りをされました。
「庭も見ていいよ」
はい、そのつもりです♪
おばあさんに少しお話をお伺いすると、50年以上ここを管理されているようです。何者かまではお伺いできませんでした。写真左奥の日本家屋がおばあさんのお住まいだそうです。そこから前庭を通って現れ、またそちらへ消えてしまわれました。
ところで、以前に別記事で申し上げましたが、
心地よい空間は、椅子が魅力的。
ほら、奥にも。
驥山先生は書や漢詩を学びに中国へ渡っていて、中国の文人とも交流が深かったようですから、中国製のものかもしれませんね。
ところで、この庭には用水路が通っていているのですが、そこにふたをしているブロックの上を自転車が颯爽と横切って行きました。周辺のまちに馴染んで溶け込んでいる証だと、お見受けしました。
自転車が向かった先は、2つある駐車場のうち狭い方。そして駐車場と前庭の境には、象徴的な大きな木。このー木何の木、桜でしょうか?四季ごとに違った味わいがあることでしょう。
書の世界へのいざない:驥山館まとめ
5歳の傑作「大丈夫」から、86歳の絶筆「心」まで。
決して難しくない、よくわからなくても感じ取ればいいんだと言ってくれているような、そんなロックとも言えそうな魅力のある書の世界に、驥山館は、川村驥山先生は、あなたを導いてくれることでしょう。
そう、篠ノ井駅を降りた時から、もう既にね。
驥山先生の書で篠ノ井のまち歩きも出来る
「書のまち篠ノ井」と言うだけあり、驥山の書は長野市篠ノ井地域の至る所に展示されています。篠ノ井郵便局や南警察署などの公共施設にも。幣川神社や太平観音などの寺社にも。
通名小学校、塩崎小学校、篠ノ井東中学校、篠ノ井西中学校、信更中学校、更級農業高校、長野俊英高校、篠ノ井高校といった学校にも。篠ノ井で育ったり、篠ノ井に暮らしている人々は、知らず知らずのうちに実は目にしているのかもしれません。
これを機に「意識して」驥山の書を探して巡るのもまた一興ではないでしょうか。そして実はみなさん、この記事の本文を読み始める前から、既に驥山の書を目にしています。
今回の旅のスタート地点、篠ノ井駅。
この看板の文字も、驥山の揮毫なのです。かっこいい。
ちゃんとありますね、「驥山」の印。その上は本名の「川村慎一郎」でしょうか。
篠ノ井駅の自由通路のガイドマップコーナーに、「書のまち篠ノ井」をコンセプトにしたマップも置かれています。驥山館にも置かれていました。なかなか珍しいコンセプトのまち歩きが、ここ篠ノ井では楽しめそうですね。
街道、古戦場、古墳、オリンピックなど、篠ノ井を楽しむ切り口は他にも沢山ありますが、その1つとして是非ともご参考にいかがでしょうか。
さあ、扉を開けましょう。