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「安曇野」の由来となった「安曇氏」とは?歴史と謎を考察!

穂高神社みたままつり

穂高神社 拝殿

長野県の人気観光地「安曇野(あづみの)」。

その由来には、「安曇氏」という日本古来からの大氏族が関係しているといわれています。「信濃国三宮」とも扱われ、醍醐天皇の927(延長5)年に選定された延喜式の神名帳においては、名神大社に列せられた大社である穂高神社の創始にも安曇氏に由来するとされています。

スキーマちゃん

九州の方からやってきた豪族の名前が由来だと聞いたことがあるけど・・詳しいことはまだ分かっていないみたい・・?

今回はさまざまな文献を参考にして、安曇氏の簡単な歴史や安曇氏が安曇野に至った理由、穂高神社や安曇野以外での安曇氏の痕跡についての諸説を紹介していこうと思います。

「安曇氏」とは?ヤマト王権時代の豪族

安曇氏は古代日本において海洋技術を用い、全国の安曇部(正確に定義するのは色んな意味で難しいので、安曇氏の私有民だと思ってください)を率いてヤマト王権(大王=今の天皇を中心にした豪族の連合体)に与した、海神/綿津見神(わたつみのかみ)を祖とする豪族です。

安曇氏は阿曇氏とも表記されますが、この表記の違いは、古い表記が阿曇、新しい表記が安曇であり、諸説はあるものの、8世紀前半に改められたようです(一律に変わったわけではないので、安曇表記に変更後も阿曇と記している例はあります)。ここでは安曇野と合わせるために、地名や人物名以外のところでは基本安曇氏表記でいきたいと思います。

「信濃国に安曇氏がいた」証拠はない?

信濃国における安曇氏の紹介をしたいところなのですが、実は、信濃国にいた安曇氏は確認されていません。安曇部として「安曇郡主帳(あづみぐんしゅちょう=安曇郡司)・従七位上(律令制における階位)・安曇部百鳥」と「安曇部真羊」が確認されているだけなんですよね。私もこれを初めて知った時は意外でした。

本来なら郡司は国造(くにのみやつこ、大化の改新(乙巳の変)以前に日本各地に存在した豪族)の一族が世襲するはず。実際に科野国造(しなののくにのみやつこ)の末裔は伊那郡、埴科郡、筑摩郡、小県郡で郡司となっているのが確認されているのにも関わらず、安曇郡では安曇部が郡司となっていることから、安曇郡と安曇氏・安曇部がとても深い関係にあったというのは推測できます。

彼らが日本のどこから発生し、いつ頃安曇野に至ったのかというのは、色々な説が提唱されたものの、まだはっきりとした定説は存在していません。というのも、史書に本拠地や安曇野への移住あるいは安曇部の派遣などが記されているわけではないからです。なので、史書に記された僅かな情報や遺跡からの出土品から想像するしかないわけです。

安曇氏の発祥の地はどこ?

安曇氏の本拠地・発祥の地とされる場所はいくつかあります。

① 福岡県福岡市の志賀島 説

志賀海神社

まずは福岡県福岡市東区志賀島(しかのしま)を由来とする説。

志賀島を本拠地・発祥の地とする説の根拠を列挙すると以下の通りです。

しかし志賀島の神社を祀っていたから、阿曇郡が存在したから、安曇氏の末裔を称しているからといって、イコール安曇氏の本拠地・発祥の地とするのは短絡的すぎます。

『肥前国風土記』や『筑前国風土記』逸文の記事に登場する百足や大浜も、「九州を行幸していた第12代天皇・景行天皇」や、「朝鮮半島に出兵するために筑前国に至った神功皇后(第14代天皇・仲哀天皇の皇后)」に従っている人物として登場しており、畿内の人物としても捉えることができます(どこから天皇や皇后に従っていたかは不明なため志賀島から参上して従った可能性もあります)。

そのため完全に「安曇氏=志賀島発祥」とすることはできないのです。

② 淡路島を含めた大阪湾一帯 説

安曇氏の本拠地・発祥の地としてのもう1つの説は、淡路島を含めた大阪湾一帯を由来とするものです。

この説の根拠は以下の通り。

などにあります。「住吉(現在、海神を祀る住吉大社がある大阪市の住吉)に関係していそうな住吉仲皇子と、淡路島の海人を率いた浜子がタッグを組んでいる上に、難波津や姫路辺りを拠点にしている百足の伝説があるってことは、大阪湾一帯で活動していたはず!」ということです。

個人的にはこっちの説の方が説得力を感じますが、確実に安曇氏の本拠地・発祥の地が大阪湾一帯とする記述があるわけではないので、こちらもやはりただの一説です。

結論:安曇氏発祥の地は謎!

以上のように決め手がないため、安曇氏の本拠地・発祥の地は今でも未解決のままなのです。ちなみに阿曇百足が『肥前国風土記』では景行天皇、『播磨国風土記』では孝徳天皇の時代の人間とされており、矛盾が生じているのは、百足が安曇氏の伝説上の祖であり、各地の安曇氏・安曇部が「いつの時代の人かはわからないけれど、とりあえず先祖である阿曇百足を話に登場させようorこの伝承は誰が主人公かわからないけれど、安曇氏の祖は百足だから百足を主人公にしよう」と意図していたからであると考えられています。

その証拠として、平安時代には、阿波国(今の徳島県)名方郡の安曇部粟麻呂が「百足の子孫だから」という理由で安曇宿禰の姓を賜っています。

安曇氏が安曇野に至った理由は?

安曇氏(安曇部)が安曇野に至った理由についての諸説を紹介します。

ちなみに以下の文章について、Wikipediaの安曇氏の記事と同じような内容じゃんと気づく方がいらっしゃるかもしれませんが、それはWikipediaに加筆したのも私だからです。なので、コピペや無断転載ではないというのはご了承願います)。

日本海側から姫川を遡上した説

まず1つ目の説は、大場磐雄氏の「弥生時代に、安曇氏が志賀島周辺から日本海側を北上していき、現在の新潟県の糸魚川市から姫川を遡上していき安曇野に到達した」というものです。しかし、この説は、北陸地方に安曇氏が到来した痕跡がなく、考古学的にも、志賀島周辺と安曇野では出土するものに異なる様式のものが多いため、現在はあまり支持されていません。

東海地方から安曇野に到達した説

2つ目の説は、宮地直一氏の「東海地方から北上して安曇野に到達した」というものです。

農業生産をさせるために安曇部を派遣した説

3つ目の説は、松崎岩夫氏の「海での生産活動だけでは経済的に厳しかったため、農業生産をさせるために安曇部を派遣した」というものです。

安曇野のあたりに設置された屯倉の管理者として安曇部が派遣された説

4つ目の説かつ最新?(2019年に論文が記されている)の説であり、私が最も説得力を感じたのは、「6世紀(第29代天皇・欽明天皇の時代)以降、屯倉(ミヤケ=ヤマト王権下での天皇や皇族の領有地で、本来は稲穀を収納する官倉そのものをいったが、のちには、その官倉に納める稲穀の耕地、付属の灌漑施設、および耕作民(田部)などを含めるものになった(コトバンクの「屯倉」項より引用))設置に積極的であった蘇我氏が安曇野にも屯倉を設置し、その管理者として、蘇我氏と深い関係にあった安曇氏あるいは安曇部が派遣された」というものです。

この説の根拠は以下の通り。

史料の少ない古代信濃史の世界において、これだけの根拠を挙げられてしまっては、実際には異なっていたとしても、説得力しか感じません。

ちなみに信濃国に屯倉が存在したと考えられる根拠は以下の通り。

安曇野以外での安曇氏の痕跡は?

玉依比売神社|長野市松代

信濃国での安曇野以外での安曇氏の痕跡を紹介します。長野市南部に存在する氷鉋斗売神社(ひがなとめじんじゃ)と氷鉋郷と斗売郷、長野市松代の玉依比売神社(たまよりひめじんじゃ)です。 

氷鉋斗売神社は、かつて存在した氷鉋郷と斗売郷の代表的な神社であり、『延喜式』にも記された式内社です。祀られている神は綿津見神の子で安曇氏の祖とされる宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)。氷鉋という地名・社名はこの神に由来するとされています。ちなみに、斗売(とめ)というのは、諏訪大社の祭神である建御名方富命や八坂刀売神の富(トミ)・刀売(トメ)と同じで、古代の神の尊称です。

玉依比売神社は、その名の通り玉依比売命を祀る神社です。玉依比売命は安曇氏の祖・綿津見神の娘で、初代天皇・神武天皇の母とされる女性です。確実な記録はありませんが、玉依比売神社も氷鉋斗売神社も、安曇氏やその支族が祀った神であると考えられていますし、私も実際にそう判断しても良いと思います。

穂高神社と安曇氏の関係

穂高神社|安曇野市

最後に、穂高神社と安曇氏の関係について記します。安曇野にある穂高神社は、穂高見命(ほたかみのみこと、宇都志日金拆命の別名とされます)、綿津見神、瓊瓊杵命(天照大神の孫で神武天皇の曽祖父)を祀る神社。安曇氏によって祭祀されてきたと伝わっています。安曇氏によって初めて穂高見神が祀られたのか、あるいは安曇野の原住民が祀っていた神の祭祀を安曇氏が継承したのかは不明です。

ネット上では「安曇犬養氏が穂高神社を祀ってきた」とする説や系図がありますが、それらは穂高神社が公表したものではない「偽の情報」ですのでお気をつけくださいね。

▼穂高神社のスキマ記事

「安曇野」の由来となった「安曇氏」の歴史と謎まとめ」

以上のように、安曇氏の概要と安曇野・信濃国の関係を述べてきましたが、なるべく簡潔に説明しようと思っていたのにも関わらず、大分冗長な文章となってしまって申し訳ないです…。

長野県にはこのような一族と歴史と謎が存在しているという事実や、その面白さを知っていただけたら嬉しいです。ここまで読んでいただきありがとうございました。

参考文献

『信州の文化シリーズ 寺と神社』(信濃毎日新聞社、1981年)
松崎岩夫『信濃古代史の中の人々』(信濃古代文化研究所、1986年)
『新編日本古典文学全集2 日本書紀』(小学館、1994年)
『新編日本古典文学全集5 風土記』(小学館、1997年)
篠川賢「古代阿曇氏小考」『日本常民文化紀要 (31) 』(成城大学大学院文学研究科、2016年)
加藤謙吉「阿曇氏に関する予備的考察」『古墳と国家形成期の諸問題』(山川出版、2019年)
佐藤雄一『古代信濃の氏族と信仰』(吉川弘文館、2021年)

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