大伴氏(おおともし)といえば、『万葉集』を編纂した大伴家持(おおとものやかもち)を想像する方が多いかもしれません。
しかし、飛鳥時代までの大伴氏は、軍事的な豪族として物部氏と並んで天皇に重用された存在であったのです。そんな大伴氏が、長野県と深い関わりにあったというのはあまり知られていないことかもしれません。
大伴氏と長野県(信濃国)との関係を紹介しようと思います。なお、大伴氏は、とても多くの系統がある氏族で、全員が全員同じ一族というわけではなく、あくまで疑似的な同族関係を築いた集団でしたので、そこを頭に入れてから以下の文章を読んでいただきたいです。
「大伴氏(おおともし)」とは?
大伴氏(おおともし)は5世紀から9世紀にかけて繁栄した有力氏族です。天照大神の孫・瓊瓊杵命(ににぎのみこと)の先駆を務めた天押日命(あめのおしひのみこと)の後裔と伝える神別氏族で、物部氏とともにヤマト王権の軍事を担当し、政治面でも活躍しました。
信濃国と「大伴氏」の始まり
初めて信濃国と大伴氏の関係が見られるのは、伝説上の話ではありますが、『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』にあります。
大伴氏の祖である武日命(たけひのみこと)が、第12代天皇・景行天皇(けいこうてんのう)の時代に日本武尊(やまとたけるのみこと)と共に東国を平定したとされ、『古事記』や『日本書紀』では日本武尊が信濃国の神を討伐しているため、伝承の中での話ではあるものの信濃国にも武日命が来ていたと考えられます。
佐久市望月にある大伴神社は、景行天皇40年に武日命が馬に乗って当地に降臨し、そのまま鎮座したと言われます。そして、乗ってきた馬を種馬として、馬の品種改良をおこなって、望月の地では多数の馬が飼育されるようになったという伝承も存在します。
古墳時代の「大伴氏」と信濃国
次に大伴氏と信濃国の関係がうかがえるのが、古墳時代の第25代天皇・武烈天皇(ぶれつてんのう)の時代です。武烈天皇3年には、大伴連室屋(おおとものむらじのむろや)が信濃国の男丁(よぼろ、王権に集められた役夫)を集めて水派邑(現在の奈良県桜井市や広陵町、河合町などが候補地)に城を作るように武烈天皇から詔を受けています。
「信濃国の男丁」は武烈天皇の名代(天皇の私有民あるいは王権の所有民とされていますが不明です)である小長谷部(おはつせべ、武烈天皇の諱(いみな、本名のようなもの)が小長谷若雀命(おはつせのわかさざきのみこと)であったことに由来します)のことであると考えられています。
なお小長谷部は筑摩郡山家郷や更級郡に存在し、千曲市の姨捨の由来になったと言われています。
中曽根親王塚古墳(東御市)は大伴氏の築いた古墳?
東御市にある、古墳時代後半期に造られたと考えられている中曽根親王塚古墳(中曽根親王という人物がいたわけではなく、中曽根にある親王が葬られたように大きな塚の古墳という意味です)も、大伴氏の築いた古墳であると指摘する研究者がいます。
中曽根親王塚古墳は方墳という形式の古墳ですが、方墳を築造した勢力は蘇我氏や蘇我系の王族との関係が深く、円墳を築造した勢力は非蘇我氏や蘇我氏と関係が薄い王族との関係が深かったと指摘されています。
古墳時代から飛鳥時代にかけての大伴氏は、大伴長徳が第34代天皇・舒明天皇(じょめいてんのう)の殯宮(もがりのみや、説明すると長くなってしまうので、色々な要素を含んだお葬式だと思ってください)で誄(しのびごと、死者への哀悼の意を述べること)を蘇我蝦夷の代わりに奏上しているように、蘇我氏と深い関係にあったため、中曽根親王塚古墳が大伴氏の造営した古墳であるという説も一理あると思います。
加えて、東信地方には、大伴氏と同族関係・主従関係を結んだと久米舎人(くめのとねり、久米氏の中でも朝廷で舎人(近衛兵のようなもの)として活動した)や丸子(まりこ、椀子王(まりこおう)の名代?)、丸子部(まりこべ、丸子とほぼ同じ)が存在していました。奈良・平安時代のことにはなってしまいますが、小県郡の人として久米舎人望足(もちたり)や久米舎人妹女(いもめ)、佐久郡の人として丸子真智成(まるこのまちなり)が確認でき、現在の上田市に見える「丸子」という地名も、丸子部に由来すると考えられており、上丸子の沢田大塚古墳は丸子部の一族のものと言われています。
奈良時代には佐久周辺に居住していた?
平安時代初期に記された『日本霊異記(にほんりょういき)』という仏教説話集によれば、奈良時代(宝亀5年(774年)前後)には、小県郡嬢里(おんなのさと、現在の本海野のことで、おんな=うんのであるとされます)に大伴連忍勝(おおとものむらじのおしかつ)という人物やその一族が居住していたと記されています。
忍勝は一族の寺を建てましたが、その寺は「法華寺」であり、現在も「法華寺川」として名前が残っています。
望月の牧と「大伴氏」
東信地方の大伴氏は、佐久郡にあった望月牧の経営に関わっていたとする説もあります。この説は、大伴氏が幾つかの事件に関わって没落する時期(786年)と、望月牧が官営牧場として成立したと考えられる時期(797年)が一致しており、大伴氏の没落と共に、私的な要素の強かった望月牧が官営牧場に転入されたと考えるものです。
佐久郡に存在する「伴野」という地名も、大伴氏に関係していると言われています。元々伴野は「大伴之荘」と呼ばれていたのが、第53代天皇・淳和天皇(じゅんなてんのう)の諱が大伴であったため、それに憚って大伴氏が伴氏へと改姓した(これは事実です)結果、大伴之荘が「伴野荘」に変化したというのです。
平安時代末期に望月牧の経営に関わっていた望月氏・海野氏・祢津氏を大伴氏の末裔であると主張する研究者もいます。
時代は飛びますが、治承3年(1179年)に安曇郡に住んでいた仁科盛家という人物の妻も大伴氏であると判明しています。
▼望月についてはこちらも参照!
大伴氏に関わる伝説
大伴氏に少しだけ関わる伝説を紹介します。既にこの伝説に関する記事はあると思うので、大伴氏に関係のある部分だけを記します。
貞観8年(866年)に、大伴氏として約130年ぶりに大納言に就任した伴善男が、応天門という平安宮の中にあった門に放火しました。そのため、善男は伊豆国に流刑となりました。その配流先で生まれた子供の子孫が、伴笹丸の子・呉葉であり、現在も鬼無里周辺に伝説の残る「紅葉」であったというのです。彼女もまた、大伴氏の子孫として、信濃国と切っても切り離せない存在となりました。「伴善男の子孫」という部分は、明治時代に付け加えられた話ですが、現代ではここも含めて1つの伝説として受け入れられています。
以上のように、信濃国と大伴氏は、時代ごとに様々な理由で関わり合いを持っていたことを知っていただけたと思います。ただ、今回記した内容について100%理解しているわけではないので、誤りや訂正があればぜひ教えていただきたいです。
式内社研究会『式内社調査報告書 第十三・十四巻』(皇学館大学出版部)
『信州の文化シリーズ 寺と神社』(信濃毎日新聞社、1986年)
長野県地名大辞典編纂委員会『長野県地名大辞典』(角川書店.1990年)
小林幹男「古代 ・中世における牧制度の変遷と貢馬」、長野女子短期大学『長野女子短期大学研究紀要』(長野女子短期大学出版会、1996年)
川崎保『赤い土器のクニ」の考古学』(雄山閣、2008年)
傳田伊史『古代信濃の地域社会構造』(同成社、2017年)
佐藤雄一『古代信濃の氏族と信仰』(吉川弘文館、2021年)
国立歴史民俗博物館『国立歴史民俗博物館研究報告 第65集 東国における古墳の終末《附編》千葉県成東町駄ノ塚古墳発掘調査報告』(国立歴史民俗博物館、1996年)
▼偉人のスキマ記事はこちら!
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