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上田市出身「山極勝三郎」とはどんな人?医学に心血を注いだ人生を分かりやすく解説!

山極勝三郎

山極勝三郎(やまぎわ かつさぶろう)”と聞いて真っ先に思い浮かぶのはあのCM。

「山極勝三郎博士の人工癌実験は、その後の医学に光を差し込む偉大なものでした」

信州にお住まいの方ならなじみがありますよね?そう、寿製薬のCMです。私も子どもの頃から見ているCMですが、山極博士については、大学生ぐらいになるまで詳しく知りませんでした。

でもとてもすごい方なんです。2016年には、遠藤憲一さん主演で山極博士の生涯が映画になりました。私も映画を見て感動した1人です。

うさぎ追いし 山極勝三郎物語
映画.com:https://eiga.com/movie/85483/
Amazon Prime Video:https://x.gd/aEYjQ

今回は、そんな山極勝三郎博士の生涯を見ていきたいと思います。

山極勝三郎ってどんな人?その生涯は?

上田市デジタルアーカイブポータルサイトより引用

山極博士は、明治・大正期に活躍した医学者です。

1863(文久3)年に現在の長野県上田市で生まれました。東京帝国大学を卒業し、そのまま大学で助手として勤務します。その後ドイツに渡り、コッホやウィルヒョウの元で最新の医学を研究しました。

帰国後、肺結核を患います。結核と闘いながらも胃癌の研究をし、日本初の胃癌専門書『胃癌発生論』を刊行しました。50歳を過ぎてから助手の市川厚一とともに人工癌実験を開始。うさぎの耳にコールタールを塗擦し続ける方法で世界初の人工癌実験に成功。3度にわたってノーベル生理学・医学賞の候補にもなりました。1930(昭和5)年、67歳で亡くなりました。

「山極勝三郎」の年表

西暦(和暦)年年齢概要
1863(文久3)0上田藩士山本家の三男として生まれる
1879(明治12)16医師・山極吉哉の養子となり上京 ドイツ語学校や外国語学校で学ぶ
1880(明治13)17東京帝国大学医学部(予科)入学
1884(明治17)21山極家の娘・包子と結婚 東京大学医学部(本科)入学
1888(明治21)25東京大学医学部(本科)卒業(当時は帝国大学医科大学)
病理学教室で助手として働き始める
1891(明治24)28医科大助教に就任
ドイツへ留学しコッホやウィルヒョウの元で学ぶ
1894(明治27)31ドイツから帰国
1895(明治28)32医科博士、医学大教授に就任
1899(明治32)36肺結核を発症
1905(明治38)42日本初の胃癌専門書『胃癌発生論』を刊行
1911(明治44)48第1回日本病理学会の会長に就任
1914(大正3)51助手の市川厚一とともに人工癌の本実験を開始
1915(大正4)52うさぎの耳に発癌を確認 東京医学会で発表
1918(大正7)55アメリカ癌研究会の名誉会員に推薦される
1919(大正8)56帝国学士院賞を受賞
1921(大正10)58ノーベル生理学・医学賞候補になる
1924(大正13)61東京帝国大学から名誉教授を授与される
1926(大正15/昭和元)63再びノーベル生理学・医学賞候補になる
1928(昭和3)65ドイツより、ソフィ・ノルドホフ・ユング賞が贈られる
1930(昭和5)67急性肺炎により逝去

「山極勝三郎」の幼少期〜東大卒業、ドイツ留学まで

上田藩下級武士・山本家の三男として生まれた勝三郎。裕福とは言えない家庭環境で育ちますが、非常に勉強ができ、学校の成績は優秀でした。

中学校卒業を前に、勝三郎の元に養子の話が来ます。それは、上田藩の御殿医をやっていたという由緒ある山極家でした。勝三郎は悩んだものの、より勉学に励める環境である養子になることにします。当時山極家は東京にあったため、中学校卒業後に勝三郎は上京しました。

その後、山極家の長女・包子(かねこ)と結婚し、東京帝国大学に入学しました。勉学に励み優秀な成績で卒業します。在学中には長男が夭折するという悲しいできごともありました。

東大卒業後は、東大病理学教室の助手として働き始めます。出張で岡山に行った際の日記には、駅の発着時刻やトンネルの通過時刻などが細かくメモされていて、几帳面な勝三郎の人柄がうかがえます。

そんななか、勝三郎にドイツ留学の話が舞い込んできます。結核菌やコレラ菌の発見者として知られるコッホ博士の元でツベルクリンの研究をしたのち、ウィルヒョウ博士の元で研究を始めました。このウィルヒョウ博士は、”ガンは外界からの何らかの刺激によってできる”という「刺激説」というものを唱えている人でした。勝三郎はそこで研究を続け、31歳のときに日本に帰国しました。

結核と闘いながら世界初の人工癌実験に成功

帰国後、博士号をもらい教授にもなった勝三郎。講義では、デモンストラチオン・クルズス(示説)という手法を用いました。これは、死体材料を示しながら、病歴を参考に病理学的解説をするという教え方です。ドイツ時代にウィルヒョウ博士から学び、日本で教える際に取り入れたそうです。

しかしそんな矢先、自宅が火事に遭い、長女を失う悲運に見舞われます。さらには勝三郎自身が結核に罹ってしまいます。病と闘いながらも癌などの研究を続け、42歳の時に胃癌の専門書『胃癌発生論』を出版。これは、胃癌に関する日本最初の専門書です。

そして、50歳を過ぎてから人工癌実験の予備実験を開始。翌年には本実験をスタートさせました。もちろん結核とも闘いながら…。助手の市川厚一とともに、毎日うさぎの耳に傷をつけてコールタールを塗る作業を繰り返しました。それは、ウィルヒョウ博士の刺激説を実験で証明しようとするものでした。

これまで人工癌実験は比較的短期間でしか行われていなかったため、勝三郎はもっと長い期間が必要と考えていました。途中うさぎが死ぬハプニングもありましたが、52歳を過ぎたころ、ついにうさぎの耳に発癌を確認しました。すぐさま、勝三郎は助手とともに東京医学会に発表します。そして、大正8年には特に優れた研究業績に対して贈られる帝国学士院賞を授与されました。

「山極勝三郎」の俳句と郷土愛

勝三郎は、故郷・上田の地も大事にしていました。研究が忙しくなかなか帰る暇はなかったようですが、明治18年、東京在住の上田出身者らとともに『上田郷友会月報』を創刊しました。戦争で一時中断しましたが、現在まで130年以上続けられています。大正10年には別所温泉や善光寺を訪れています。人工癌実験に成功した後の帰省ということもあって、勝三郎にとっては故郷へ錦を飾るような想いだったかもしれません。

また、勝三郎は俳句を親しんでいました。 故郷上田を流れる千曲川からとった「曲川」という俳号を使っていました。人工癌実験に成功した際の句「癌出来つ 意気昂然と 二歩三歩」は、冒頭でも触れた寿製薬のCMでも有名です。そして、研究に終わりはないということを詠んだ「行き着けば また新しき 里も見え」という句も残しています。

幻のノーベル賞

大正10年、勝三郎は58歳のときに、ノーベル生理学・医学賞候補に推薦されました。しかし、このときは受賞を逃しました。そして、大正15年にもノーベル賞候補となりましたが、またしても受賞を逃します。このときに受賞したのは、デンマークのヨハネス・フィビゲル。彼は、寄生虫を用いてネズミに人工癌をつくった功績で受賞しました。しかし後年、それは誤りであったことがわかっています。

昭和3年、勝三郎が65歳のときに、ドイツからノルドホフ・ユング賞をもらいました。世界で3人目の偉業でした。そして昭和5年、勝三郎は67歳で亡くなりました。結局勝三郎は、ノーベル生理学・医学賞を受賞することできませんでした。

実はこの時代、日本の理系研究者の地位が低かったため、ノーベル賞レベルの業績をあげていても受賞することができなかった、という風潮があったともされています。北里柴三郎や野口英世なども同じような境遇にあったとも言われています。

一方で、勝三郎が逃したノーベル賞についてこんな後日談があります。昭和41年、かつてノーベル賞選考委員をつとめたヘンシェン博士という人物が来日しました。彼は講演の場で「1926年のノーベル賞は山極・市川の業績に与えるべきだった」と話したそうです。

山極勝三郎博士についてあらためて調べてみて、やっぱり偉大な人だと思いました。癌がなぜできるのか、100年前にはあまりわかっておらず、山極勝三郎博士やそれに続く様々な研究者たちの努力によって、少しずつ治る病気になってきたんだなと、しみじみ思います。

一方で、山極勝三郎博士の知名度が低いのが私としては残念です。同時代に活躍し、お札の肖像画にもなった野口英世と北里柴三郎の2人と比べても知名度は低いと思うのです。私は、医学に携わる人や信州人以外の方にも、山極勝三郎博士の存在を知ってほしいと思っています。

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