松尾 芭蕉(まつお ばしょう)が亡くなったのは、50歳の時でした。
頭を剃り上げ頭巾をかぶり八徳のような胴着を着る姿から、どうにも老人ような印象を覚える方も多いかもしれません。
40歳で『野ざらし紀行』、43歳で『更科紀行』、45〜46歳で『おくのほそ道』の旅に出た後、そのまま江戸へ帰ることなく大阪で亡くなりました。
島崎藤村は『芭蕉』の中でこう述べています。
少年時代から私の胸に描いて居た芭蕉は、一口に言へば尊い『老年』であつた。私はつい近頃まで芭蕉といふ人のことを想像する度に、非常に年とつた人のやうに思つて居た。その晩年は、人として到達し得る最後の尊い境地の一つだといふ風に考へて居た。
(中略)
兎に角、私の心の驚きは今日まで自分の胸に描いて來た芭蕉の心像を十年も二十年も若くした。さう思つてもう一度芭蕉の全集をあけて見ると、『冬の日』の出來たのは芭蕉が四十歳になつたばかりの頃だとあるし、『曠野』の出來たのが四十五歳の頃だとある。『猿簑』の選ばれた頃ですら、芭蕉は四十八九歳の人だ。芭蕉の藝術はそれほど年老いた人の手に成つたものではなくて、實は中年の人から生れて來た抑へに抑へた藝術であると言はねばならない。
今回は松尾芭蕉の意外な生い立ちに触れつつ、彼の代表作を解説していきます。
松尾芭蕉の年表
松尾芭蕉の主な生い立ちを年表にまとめました。年齢は数え年ではありません。
1644(正保元)年 | 0歳 | 伊賀国(現三重県伊賀市)に生まれる。 |
1656(明暦2)年 | 12歳 | 父・松尾与左衛門死去。 |
1662(寛文2)年 | 18歳 | 伊賀国上野の侍大将・藤堂良精と息子の良忠に仕える。 |
1664(寛文4)年 | 20歳 | 『佐夜中山集』に2句入集。 |
1666(寛文6)年 | 22歳 | 仕えていた藤堂良忠が25歳で死去。以後6年間、京都の禅寺で修業。 |
1672(寛文12)年 | 28歳 | 処女句集『貝おほひ』を伊賀上野菅原神社に奉納。 |
1675(延宝3)年 | 31歳 | 江戸へ下る。号「桃青」を用いるように。 |
1678(延宝6)年 | 34歳 | 俳諧の宗匠(先生)となる。水道工事監督としても以後4年間従事。 |
1680(延宝8)年 | 36歳 | 深川(東京都江東区)に居を移す。号「芭蕉」を用いるように。 |
1684(貞享元)年 | 40歳 | 『野ざらし紀行』の旅に出る。 |
1687(貞享4)年 | 43歳 | 『更科紀行』で信濃国を経由し、江戸へ戻る。 |
1689(元禄2)年 | 45歳 | 『おくのほそ道』の旅に出る。 |
1694(元禄7)年 | 50歳 | 大阪にて死去。 |
松尾芭蕉は江戸時代初期の俳人!伊賀生まれ
松尾芭蕉は江戸時代初期、三代家光から五代綱吉の時代を生きた俳人です。
1644(正保元)年に伊賀国阿拝郡(現在の三重県)に豪農の次男として生まれました。農民ではあったものの苗字と帯刀を許された一族であったようです。
松尾芭蕉の本名は松尾宗房(むねふさ)。
恵まれた家庭に思えますが、1656(明暦2)年、芭蕉が12歳の時に父親が亡くなってからは苦しい生活が続きます。1662(寛文2)年、18歳で伊賀国上野の侍大将である藤堂良精に仕えることに。
料理人(もしくは厨房役?)をする傍ら、良精の嫡男である良忠と共に京都の北村季吟から俳諧を学びます。
18歳のときに初めて残した句がこちら。
春や来し 年や行(ゆき)けん 小晦日(こつごもり)
2年後には『佐夜中山集』に本名の松尾宗房名義で2句入集し、才能を開花させていきます。しかし1666(寛文6)年、22歳の時に2つ年上の藤堂良忠が死去し、藤堂家の士官を退きました。
31歳でついに江戸へ!
藤堂良忠の死後、京都の禅寺で6年間修行をしていた芭蕉。その後1672(寛文12)年、処女句集『貝おほひ』を伊賀上野菅原神社に奉納したことをきっかけに江戸へ居を移します。
この頃から本名の松尾宗房ではなく、号「桃青」を用いるようになります。
芭蕉は34歳にしてついに俳諧の宗匠(先生)となり、その傍らで水道工事監督として水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事にも携わっていました。
最愛の母の死・・そして『野ざらし紀行』へ
江戸で10年ほど腰を落ち着かせていた芭蕉のもとに、故郷に残した母の訃報が届きます。翌年に東海道から伊賀へ向かい、墓参りをしました。
その後大和・吉野・山城・美濃・尾張・甲斐をまわり、再び伊賀に戻って越年。木曽・甲斐を経て江戸に戻る旅は『野ざらし紀行』にまとめられました。
紀行の名前は、出発の際に詠まれた歌に由来しています。
野ざらしを 心に風の しむ身哉
『更科紀行』の旅へ
更科の里、姥捨山の月見んこと、しきりにすすむる秋風の心に吹きさわぎて。
江戸時代初期の俳人である松尾芭蕉は、43歳の時に姨捨の月を見るため信州を歩きました。
美濃国から木曽路を通って姨捨、善光寺を詣でてから碓氷峠を通って江戸へと帰る様子を描いた『更科紀行』。秋風に誘われて歩いた信州の美しい秋景が感じられる作品です。
詳しいルートや行程、詠んだ句などは下の記事にまとめています。
45歳で「おくのほそ道」の旅へ
『野ざらし紀行』や『更科紀行』の旅を経て、ついに芭蕉は『おくのほそ道』の旅で江戸から東北〜北陸〜京都を歩きます。
旅の道中では有名な句をいくつも残しています。
夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡
閑さや 岩にしみ入る 蝉の声
五月雨を あつめて早し 最上川
ちなみにわたしは冒頭文に「白河の関越えんとて」とある福島県白河市に芭蕉ゆかりの地めぐりで訪れました。芭蕉と弟子の曾良との銅像もあります。
大阪にて50歳で死去
1694(元禄7)年10月、江戸へ戻ることなく伊賀上野や大阪に留まっていた一茶は、大阪で死去しました。50歳でした。少し前から体調を崩し、発熱や下痢に苦しんでいたようです。
芭蕉の門人は蕉門十哲と呼ばれる越智越人や河合曾良をはじめ、全国各地で“蕉門派”が活躍しました。死後も芭蕉を崇拝する動きは止まず、そのゆかりの地には多くの俳人が訪れています。
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