木曽〜長野『更科紀行』で松尾芭蕉が訪れた場所とルートを考察

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更科の里、姥捨山の月見んこと、しきりにすすむる秋風の心に吹きさわぎて。

江戸時代初期の俳人である松尾芭蕉は、43歳の時に姨捨の月を見るため信州を歩きました。

美濃国から木曽路を通って姨捨、善光寺を詣でてから碓氷峠を通って江戸へと帰る様子を描いた『更科紀行』。秋風に誘われて歩いた信州の美しい秋景が感じられる作品です。

今回はそんな『更科紀行』の中で松尾芭蕉が訪れたと思われるスポットを紹介します。

更科紀行のルートは?

松尾芭蕉「更科紀行」ルートマップ

更科紀行の資料は少ないものの、ルートと旅程はこのように推測することができます。岐阜から木曽路、善光寺街道を通って姨捨まで3,4日。

平坦な道ではなく、ひたすら標高を上げていく過酷な旅であったはず。44歳にもかかわらず、芭蕉がいかに健脚であったかがうかがえますね。

これらの行程を並べながら「九折重なりて、雲路にたどる心地せらる」と書いています。険しい道ながらも、心躍る様子を想像することができます。

▼芭蕉の旅程(1688年)

  • 8月11日:美濃国を出発
  • 8月15日:姨捨到着→観月(武水別神社周辺泊?)
  • 8月16日:善光寺参拝(17日説あり)→坂木宿(坂城町)に宿泊
  • 8月下旬:江戸へ帰還

※旅程は諸説あります。今回は『更科紀行』の旅程(宮川康雄)を参照しました。

桟(かけ)はし、寝覚(ねざめ)など過て、猿が馬場・たち峠などは四十八曲がりとかや

木曽の桟(かけはし)|上松町

木曽の桟|上松町

姨捨に向かうため、まずは木曽路を歩いた芭蕉。木曽義仲を敬愛していた彼として、感慨深いものがあったのでしょうか。

木曽の桟(かけはし)は中山道にある難所のひとつで、歌枕にもなっています。木曽川沿いの断崖につくられた桟道で、昔から危ういものの代名詞でした。

ちなみに長野県歌「信濃の国」の中でも「木曽の棧」かけし世もと謳われています。これは木曽の桟をかけた時代に思いを馳せながら、という意味ですね。

芭蕉はここで2句詠んでいます。

桟(かけはし)や いのちをからむ つたかづら

→つた草が、命懸けで木曽の桟に絡みついている

桟や まづ思い出づ 駒むかへ

→木曽の桟で真っ先に思い浮かんだのは、満月の日に献上される馬たちのことだ

初秋の木曽で難所といわれる桟を歩きながら芭蕉が真っ先に思い浮かんだのは、秋の風物詩である駒迎えでした。毎年8月15日に献上される信州の馬たちもこの難所を通っていたのでしょう。

駒迎えについては下の記事で詳しく解説しているので、あわせてご覧ください。

寝覚の床|上松町

芭蕉は木曽の桟の少し手前(南)にある寝覚(ねざめ)の床にも触れています。こちらも木曽の桟同様、歌枕のひとつ。浦島太郎が玉手箱を開けて夢から「寝覚めてしまった場所」という伝説の残る場所です。

ちなみに長野県歌「信濃の国」では旅のやどりの「寝覚の床」と謳われています。

姨捨の月|千曲市

千曲市姨捨中秋の名月
姨捨「中秋の名月」

さらしなの里、姨捨(おばすて)山の月見んこと、しきりにすゝむる秋風の心に吹さわぎて

木曽路を経て善光寺街道に入った芭蕉は、猿が馬場(麻績村)やたち峠(松本市四賀〜筑北村本城)などを通って最大の目的地である姨捨(おばすて)にやってきます。

8月15日付近に到着していることからも、姨捨で「中秋の名月」を見ることを目的に旅をしていたことが分かります。

姨捨で詠んだ句はこちら。句意はわたしの意訳です。

俤(おもかげ)や姨(うば)ひとり泣月の友

→その昔ここに独り残され、月だけを友として泣いた姥のおもかげを偲ぼう。

いざよひもまだ更科の郡かな

→十五夜を観にきたが、十六夜の今夜もまだ更科にいるよ。

姨捨伝説を踏まえて姥のおもかげに思いを馳せた芭蕉。次の句では、次の日も更科(姨捨周辺の通名)にいる様子を詠んでいます。

十六夜(いざよい)にはためらい、進めないといった意味もあるので、この地を離れる名残惜しさが表れていますね。

姨捨の楽しみ方は下の記事をご参照ください。

善光寺|長野市

善光寺

姨捨の次に芭蕉が訪れたのは善光寺

姨捨からは日帰りで、その日はさらに南の坂木宿(坂城町)に泊まったようです。

日本で唯一「宗派のないお寺(正確には複数の宗派によって管理されるお寺)」として2,000年以上の歴史を持つ善光寺をよく表す一句を残しています。

月影や 四門四宗も 只一ツ

→さまざまな宗派があれど、一切を照らす月のように仏の教えはただひとつである。

月に照らされた善光寺の影を見ていたのでしょうか。夜に着いたとすると、善光寺周辺で1泊していそうなものですが、なにぶん資料がないので正確なことは分かりません。

もしくは実際に月と善光寺を見たわけではなく、「月影=真如の月」として、明月が闇を照らすように煩悩を消し去る仏教の言葉にかけただけかもしれません。

ただ歌枕の地を実際に歩き目で見たものを詠むことに価値を置いてきた芭蕉のことですから、個人的には夜の善光寺を参拝したのだと思っています。

松尾芭蕉『更科紀行』のルートと日程まとめ

千曲市姨捨長楽寺

更科紀行や参考資料をもとに、松尾芭蕉の歩いた場所をいくつかご紹介しました。

先人の足跡を辿りながら、作品や風景を通してその情緒を感じる旅も素敵ですね。

奥のほそ道とは異なり資料も少ない中ではありますが、興味のある方はぜひ参考にしてみてください。

▼歴史・文化のスキマ記事はこちら

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この記事を書いた人

信州さーもん

スキマな観光ライター。長野県内外、国外を旅します。長野県観光WEBメディア「Skima信州(http://skima-shinshu.com )」代表。道祖神宿場街道滝ダムため池棚田神社仏閣好きな平成生まれの魚。浅い知識を浅いままに増やしています。企画・アイディアを出すのが得意。たぶん。