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松井須磨子ってどんな人?演劇に、愛に、情熱を注いだ人生を分かりやすく解説!

私が松井須磨子と聞いてイメージするのは、カチューシャの唄を歌った女優さんで、島村抱月と不倫した人…という感じです。

信州にずっと住んでいる私ですが、松井須磨子が長野市出身だと知ったのはつい数年前、NAGANO検定を受験したときのこと。公式テキストの中で紹介されていたので勉強したものの、その後は詳しく知る機会もなく、今になってしまいました。

そこで今回は、松井須磨子の波瀾万丈な人生をご紹介したいと思います。

▼松井須磨子の「カチューシャの唄」についてはこちら!

松井須磨子ってどんな人?その生涯は?

松井須磨子(まついすまこ)は明治時代の終わり〜大正時代に活躍した新劇女優。

1886(明治19)年に長野県埴科郡清野村(現在の長野県長野市松代町)で生まれました。

上京して演劇と出逢い、文芸協会の研究生となります。そこで『ハムレット』のオフィーリア役や『人形の家』のノラ役などを好演しました。しかし、演出の島村抱月と恋愛関係になり2人で文芸協会を去ります。

その後抱月と芸術座を立ち上げ、『復活』のカチューシャ役を演じ、劇中で歌った「カチューシャの唄」が大ヒットしたことでトップ女優に。

ちなみに「カチューシャの唄」を作曲した中山晋平は長野県中野市出身。彼の記念館では松井須磨子に関する資料も展示しているので、興味がある方はぜひ。

松井須磨子の年表

西暦(和暦)年年齢概要
1886(明治19)0長野県埴科郡清野村(現在の長野市松代町)に生まれる。
1903(明治36)17千葉県木更津の旅館に嫁ぐもすぐに離婚。
1907(明治40)21前沢誠助と演劇(おとぎ芝居)を観に行き魅了される。
1908(明治41)22前沢誠助と結婚。
1910(明治43)24坪内逍遥主宰の文芸協会演劇研究所へ1期生として入所。
1911(明治44)25『ハムレット』のオフィーリア役、『人形の家』のノラ役を演じる。演出家の島村抱月と親密になり始める。
1912(明治45/大正元)26『故郷』のマグダ役を演じる。
1913(大正2)27恋愛関係になった島村抱月とともに文芸協会を脱会。同年、芸術座を立ち上げ。
1914(大正3)28『復活』のカチューシャ役を演じる。劇中で歌った「カチューシャの唄」が大ヒット。
1915(大正4)29信州を含め、国内外を巡演する。芸術座の公演で「ゴンドラの唄」を歌唱。
1918(大正7)32スペイン風邪により島村抱月が急逝。芸術座も解散。
1919(大正8)33須磨子も後を追うように自殺。

須磨子が演劇と出逢うまで

旧松代藩士の子として生まれた松井須磨子。本名は小林正子です。

養子先の長野県上田市で小学校時代を過ごしますが、養父の死により実家に戻ることに。しかし、今度は実父が亡くなってしまいます。

その後、東京に住む姉を頼って上京。姉の嫁ぎ先である菓子屋「風月堂」で働きながら裁縫学校を卒業。18歳で千葉県木更津の旅館に嫁ぎますが、すぐに離婚することに。

やがて、教師を目指している前沢誠助という人物と出会います。

2度目の結婚と女優 “松井須磨子” の誕生

文学や演劇に興味があった前沢誠助に連れられ、正子はおとぎ芝居を観に行きます。正子はその舞台に魅せられ、自分も演じたい!と思うようになったそう。

1908(明治41)年に誠助と結婚します。そして、できたばかりだった坪内逍遥主宰の「文芸協会演劇研究所」へ1期生として入所。演劇の稽古に熱中します。 しかし、演劇に熱中するあまり家庭をかえりみないようになり、ついに誠助とは離婚してしまいます。

離婚後、さらに演劇にのめり込むようになった正子は、試演会で『ハムレット』のオフィーリア役に抜擢されます。見事に演じ切って公演は大成功。帝国劇場でも公演をすることになり、芸名を “松井須磨子”としました。

続いて、『人形の家』のノラ役も務め、女優としての階段を上がっていきます。

島村抱月との恋愛とカチューシャの唄

女優として順調にキャリアを歩む須磨子でしたが、この頃から演出の島村抱月と親密な関係になり始めます。抱月には妻子がいたため、不倫関係でした。

抱月に傾倒する須磨子、須磨子を優遇する抱月。会のメンバーからは不満の声があがり、主宰の逍遥も頭を抱えます。そして1913(大正2)年、2人で文芸協会をやめることになりました。

しかし2人は、すぐさま劇団「芸術座」を結成します。翌年、須磨子は『復活』のカチューシャ役を演じ、一躍世間に名を轟かせることになりました。劇中で歌った「カチューシャの唄」は大ヒット(作詞:島村抱月・相場御風、作曲:中山晋平)。国内外を巡演しました。

さらに1915(大正4)年には、のちにさまざまな歌手によって歌い継がれる「ゴンドラの唄」を歌唱。トップ女優に上り詰めます。

故郷・信州と松井須磨子

スターとなった須磨子でしたが、故郷への想いは強く、信州での公演は念願だったそう。その想いは1914(大正3)年に叶いました。善光寺の北東にあった「三幸座(みゆきざ)」で公演。

その後4度に渡って信州へ公演に訪れ、1917(大正6)年には松代でも公演を行っています。

信州でも須磨子の人気は相当なもので、公演前には新聞で連日須磨子関係の記事が載っていたそうです。

33歳で島村抱月の後を追う

しかし、須磨子に悲劇が訪れます。 1918(大正7)年11月、島村抱月がスペイン風邪で急逝します。失意の中舞台に立っていたものの、翌1919(大正8)年1月、芸術座の道具部屋で須磨子は自殺しました。 抱月と一緒の墓に入ることを望んだ須磨子でしたが、当然許されるはずもなく、故郷・松代の小林家と、東京・多聞院に分骨されました。

また、須磨子の実家に近く、生前の須磨子がお世話になっていた林正寺には、「カチューシャの唄」の一節が刻まれた演劇碑があります。

松井須磨子ってどんな人?まとめ

恥ずかしながら私は松井須磨子についてあまり知りませんでした。

活動期間がわずか9年ほどだったことも。なぜこれだけ後世に名が残る人物なのかということも。それは、須磨子自身が歌に演劇に努力し続け、プロの女優として人々を魅了していたからだと思いました。

一方で、一度決めたらその道を突き進む性格は、時に周りとの軋轢を生みました。それでも、女性の立場が低かった時代に、自分の意志を曲げずに生きた須磨子の生き方には学ぶところがあります。

みなさんは須磨子の人生から何を感じましたか?

▼偉人のスキマ記事はこちら!

参考文献

・NAGANO検定実行委員会著・発行 『NAGANO検定公式テキストブック改訂版』 第2版(2018)

・小沢さとし/文 田代三善/絵 株式会社郷工出版社発行『信濃の伝記シリーズ② 松井須磨子』(1989)

・堀井正子著 こころの学校編集室発行 『【新版】ふるさとはありがたきかな 女優 松井須磨子ー故郷長野から伝えたいことー』(2023)

・国立国会図書館 近代日本人の肖像 『松井須磨子』
 https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/332/

・一般社団法人新宿観光振興協会 『多聞院 松井須磨子の墓』
 https://www.kanko-shinjuku.jp/spot/c004-vi-100/article_347.html

・長野・門前暮らしのすすめ 『門前暮らし日記 034善光寺に隣接していた劇場「三幸座」』   
 https://monzen-nagano.net/blog/034_2/

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