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東京の「信濃町」は長野県(信濃国)と関係があるの?由来をご紹介

東京の「信濃町」は長野県(信濃国)と関係があるの?由来をご紹介

ずっと気になっていたことがありました。

東京にはなぜ信濃町(しなのまち)があるのでしょうか。

野尻湖のある信濃町と同じ名前なのは偶然であるにしろ、信濃国(長野県)とのつながりはあるのだろうか。

WEB上で調べてみるとその疑問はすぐに解決されましたが、せっかくなので信濃町を歩いてみることにしました。その方が面白そうだからです。

信濃守を務めた永井尚政の屋敷があった信濃町

信濃町駅周辺

結論から言うと、信濃町(東京都)の地名は江戸時代、この地に信濃守(しなののかみ)を務めた永井尚政(ながいなおまさ)の下屋敷があったことに由来しています。

信濃守とは今でいう知事のような役職ですが、実際に信濃国を治めていたかというとそうではありません。あくまで幕府から与えられた官職名のようなもので、信濃国とは関わりがなかったようです。

永井信濃守屋敷と呼ばれたお屋敷は、現在の信濃町駅あたりに位置していました。

信濃守 永井尚政とは?父子共に徳川家の家臣

信濃守を務めた永井尚政の父・直勝は若い頃から徳川家康の家臣として活躍しました。豊臣秀吉と争った長久手の戦いでは池田恒興の首を取って勝利を収め、小田原の戦いにも家康の家臣として出陣しています。

1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは直勝、尚政ともに出陣し、勝利をおさめました。そして1605(慶長10)年に直勝が信濃守に任命され、直勝の死後に尚政が家督を継ぐこととなります。

永井直勝が創建した一行院(いちぎょういん)と千日谷

隈研吾デザインになった現在の一行院

信濃町駅の裏手には、一行院という大きなお寺があります。現在は隈研吾のデザインしたおしゃれなつくりになっていますが、創建は永井尚政の父・直勝です。

僧侶になった家臣のために、お屋敷の一部に一行院を建立しました。

直勝の没後は、その菩提を弔うために千日を単位とする万日回向の常念仏が行われるようになったことから千日寺と名付けられます。今でもこの辺りが「千日谷」と呼ばれ、坂には「千日坂」と名付けられているのはこのような由来があったのです。

東京「信濃町」の由来 まとめ

東京にある不思議な「信濃町」の由来をご紹介しました。

長野県とは直接関係ありませんでしたが、知っておくと面白い雑学になりそうです。

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