長野県から京都へ 幕末に活躍した女性志士 松尾多勢子の一生

松尾多勢子

幕末に討幕運動で活躍した人物と聞くと、薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通、長州藩の桂小五郎、公家の岩倉具視など、挙がる名前はほとんどが男性です。

男性中心的な運動だった討幕運動において、主婦として四男三女の子どもを生み育てたのち上洛して討幕運動に参加した女性活動家がいたと聞くと驚くかもしれません。

松尾多勢子(まつおたせこ)は、長野県出身伊那郡山本村(現飯田市)出身、19歳で伴野村(現豊丘村)に嫁ぎ、51歳で上洛後、幕末期に活躍した尊皇派女性志士です。

今回は、そんな不思議な経歴と持つ長野県出身の偉人 松尾多勢子の一生に迫ると共に、彼女が世の中に与えた社会的影響や文化的影響をみていきたいと思います。

松尾 多勢子(まつお たせこ)とは?

松尾多勢子は、1811年(文化8年)に、信州伊那郡山本村、現長野県飯田市の豪農の長女として生まれました。父の竹村(北原)常盈は俳諧や文芸を好む教養人で、多勢子に幼少の頃から読み書きや和歌が学べる環境を整え教育を受けさせていました。

多勢子は、19歳のとき、伴野村(現在の豊丘村伴野)で製糸業を営む松尾佐次右衛門に嫁ぎました。病弱な夫を支えながら、主婦としておよそ30年間の間に三男四女を育て上げました。なお、育てた子供の数には、7人という説と10人という説があります。

この当時の伊那谷は平田篤胤の流れを汲む平田派国学が盛んで、多勢子はその影響を大きく受けました。家事を切り盛りする傍ら、歌を詠み、平田派国学などを学ぶと共に勤皇の思想が大いに高揚していきます。

当時の伊那谷は、学問が盛んだったんだね!

「信州から出てきた歌詠みばあさん」として活躍

松尾多勢子
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Matsuo_Taseko.jpg

1862年(文久2)、多勢子は主婦の座を嫁に渡したのち、52歳のときに夫の許可を得たうえで生家に行くと松尾家を出発。生家に戻った多勢子は上洛の身支度をし、京都へと出発しました。

その当時の京都は、攘夷の空気に満ち、全国から勤王の志士が集まっていました。また同年には、土佐では坂本龍馬が脱藩し、薩摩からは島津久光が上洛、その矢先に寺田屋騒動が起こるなど激動の年でした。

上洛後、多勢子は和歌を通じ「信州から出てきた歌詠みばあさん」というふれこみで、平田国学派の長州や土佐の志士たちとつながり国事を語り合い、公家の歌会にも参加しました。当時は、「信州から出てきた、すごい女性がいるらしい」と話題にもなったんだとか。

また藩士の久坂玄瑞・品川弥二郎・藤本鉄石らとつながり、連絡員として重宝がられ討幕派を陰で支えたり、若い志士たちの相談に乗るなど、「勤労の母」と名を馳せました。

当時、男性志士ばかりの時代に、まさか女性志士がいるとは誰も思っていませんでした。さらに、多勢子は長野県という地方出身の老女だったため、会う人たちを油断させられたと言います。自ら「娘を探しているんです」と嘘をついて情報収集していたという話もあります!多勢子の行動力、恐るべし!

さらに、多勢子は、当時「和宮降嫁」に関係したため「佐幕派」とみられ命を狙われるほどだった岩倉具視の家を訪れ直接接触してその真意を確かめた上で、「岩倉が佐幕派でないこと」を勤王志士たちに説いて、岩倉が勤王派に受け入れられるきっかけをつくりました。

その後、岩倉具視は明治維新の立役者として活躍することになるので、多勢子の行動力が無ければのちの岩倉具視は無かったかもしれません。たった半年間のうちに幅広い人脈をつくり討幕運動にも深く関わった多勢子は、約半年の京都を後に伴野村に戻りました。背景には、足利三代木像梟首事件に関与したと疑いをかけられたことがあります。

再び、上洛-岩倉具視の女参事になる-

岩倉具視

多勢子は、密かに帰郷したのち天誅組や水戸天狗党の伊那地方における支援者として活動しました。その後も、幕府から追われていた角田忠行、相楽総三、長谷川鉄之進ら尊王攘夷派の志士や学者を匿いました。

また戊辰戦争で幕府追討の大号令が出たときには、従軍できない自身の代わりに息子2人を従軍させたりもしました。

1868年(明治1年)、58歳の多勢子は、なんと再び京都へ上洛します。このときは、明治維新後に新政府の要人となった岩倉具視に招かれ岩倉家に分客とし入り、志士のために奔走しました。当時、岩倉家の家政一切を取り仕切った多勢子は「女参事」と呼ばれていたそうです。

岩倉具視の多勢子への信頼はとても厚く、彼女の進言は必ず受け入れられたといわれています。また、彼女の口入れで官途に就こうとする者も多かったとのこと。岩倉具視らが住まいを東京に移すと、多勢子も東京へ生活を移して、引き続き志士らと交わりました。

帰郷後の多勢子の活躍と後世への影響

尹良親王後旧迹の碑

1989年(明治2年)、多勢子は、新政府の確立を見届けたのち帰郷し、晩年は農業や養蚕にいそしみながら過ごしたといわれています。しかし郷里に戻った直後は、家が財政的に厳しく傾いているなど苦労も多く、家業の立て直しのために奔走したという話も。

また、旧知の品川弥二郎が明治天皇巡行の供奉先発として飯田に来たときには、長年、村の悲願だった尹良親王の墓所の治定を積極的に働きかけて実現させたといわれています。

変わりゆく世の中を見ながら、多勢子は1894年(明治27年)に84歳で亡くなりました。死後、多年の誠忠が認められ、正五位が贈られました。

お墓は慈恩院東裏松尾家墓地内にあり、死後も多くの人が訪れていたといわれています。また、当時の信濃南部一帯では有名な存在だったので、島崎藤村の「夜明け前」にもその名前が13回も登場しています。

さらに、戦前は女性でありながら志士として活躍した珍しい存在であったため、良妻賢母の典型として喧伝されることもありました。

最後に-松尾多勢子の足跡をたどる-

本記事では、長野県出身の幕末志士 松尾多勢子を取りあげてきました。現在でも、多勢子の足跡をたどれる観光スポットが県内には存在します。その多くは、豊丘村と伊那市にあるので、興味関心ある方はぜひ巡ってみてください。

  • 豊丘村資料館:多勢子の懐剣や白子袖、平五位、旅櫛笥、旅日記などが展示されています。
  • 山本地区を見下ろす城山公園:多勢子の歌碑があります。
  • 生家竹村家:門脇に多勢子の歌碑
  • 慈恩院東裏松尾家墓地:多勢子が眠る墓がある
  • 本学神社:国学四大人(荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤)を祀る本学霊社

参考資料
朝日新聞出版, 朝日日本歴史人物事典.
市村咸人, 1930, 松尾多勢子, 信濃郷土資料普及会.
永井路子, 1990, 歴史のヒロインたち, 文春文庫.
木内昇, 2013, 松尾多勢子 幕末駆け抜けた「おばさん力」, 日経WOMAN START.
歴史くらぶ, 松尾多勢子・・・10人の子供を産み育て上げた後、討幕運動で活躍した女性.
観光情報「観るなび」, 幕末の女傑“松尾多勢子”の墓.
幕末維新新選組, 幕末女傑名鑑, 松尾多勢子.
JAみなみ信州, 飯田市山本出身の女志士「松尾多勢子」.
BUSHOO!JAPAN, 2021, 久坂や岩倉お気に入りの松尾多勢子!遅咲きの勤王おばちゃんって何者?
南信州豊岡村, 松尾多勢子と墓
豊岡村観光ホームページ, 幕末の女傑“松尾多勢子”の墓




この記事を書いた人

Skima信州編集部

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