「真田氏・海野氏・滋野氏」ルーツと歴史の謎を考察

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「長野県の戦国武将」といえば、「真田 幸村(信繁)」や「真田 昌幸」などの真田氏を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。彼は大河ドラマの主人公になるほどのビッグネームで、歴史を知らない人でも名前だけは聞いたことがあるという人も多いと思います。

実は真田氏のルーツに関して「海野氏の末裔である」ということ以外、詳しいことは判明していません。しかも、その海野氏も、平安時代末期に木曾義仲に従った「海野幸親(うんのゆきちか)」以前のことはほとんど判明していません。

そこで今回は真田氏(というよりもその大元の海野氏)のルーツに関する3つの説と、それに対する評価を紹介したいと思います。

真田氏(海野氏)のルーツには3つの説があると記しましたが、まずはその3つの説を紹介します。

真田氏のルーツ説① 清和天皇の子孫で滋野氏の末裔

1つ目は「清和天皇(せいわてんのう)の子孫の滋野氏の末裔説」です。これは、江戸時代に真田氏が自称したものです。なお真田氏や海野氏は「苗字」であり、平安時代末期やそれ以降に登場したのに対し、滋野氏は「氏」であり、平安時代初期に天皇から賜ったという違いがあります。「氏」と「苗字」が異なるものであるという認識は頭に入れておいてください。

「清和天皇の子孫の滋野氏の末裔説」の初見は、江戸時代初期の寛20年(1643年)に江戸幕府により編纂された『寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん)』です。ここでは清和天皇の子・貞秀親王(さだひでしんのう)が滋野氏の祖となり、その子・幸恒(ゆきつね)が海野小太郎を称し、子孫が海野氏になった」とされています。

享保21年(1736年)に死亡した松代藩主の真田幸詮(さなだゆきあきら)までが記された(=幸詮が死ぬ前後に作成された)真田氏の系図では、清和天皇の子が「貞元親王(さだもとしんのう)」となっていて、その理由について、系図には「書き間違えたのかもしれないが、よくわからない(原文は漢文です)」と記されています。

しかし江戸時代の真田氏が主張した以上の系図は、かなり早い段階から疑問が示されていました。というのも、1700年前後に幕府内で活躍していた新井白石(あらいはくせき)という学者が、自身の著作(『藩翰譜(はんかんふ)』)において、「清和天皇に貞秀親王という子がいたという史料が存在しない」ことや、「海野氏の先祖の滋野氏は、弘仁14年(823年)に滋野朝臣(しげののあそん)の姓を賜った滋野貞主(しげののさだぬし)の末裔と考えられる(元々貞主は「滋野氏」ではありましたが、「朝臣」というとても高貴な姓(かばね、称号のようなもの)を賜ったということ)」ことを指摘したのです。

真田氏側はこのような指摘を受けて、幕府が『寛永諸家系図伝』を補足するために『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』を編纂しようとした際には、「清和天皇の第五皇子・貞保親王(さだやすしんのう)の孫・善淵王(よしふちおう)が初めて滋野姓を賜った」という、これまた以前とは別の主張を進上しました。

しかしこの主張も、『寛政重修諸家譜』の編纂者に「清和天皇が即位する以前の延暦17年(798年)に、伊蘇志臣家訳(いそしのおみいえおさ)が、伊蘇志臣から滋野宿禰(すくね)に改姓していること」などを指摘され、「清和天皇のの子孫である」という系譜を幕府に疑われ、結果的に『寛政重修諸家譜』では、「清和天皇の子孫という説がある」という注釈はあるものの、海野氏初代の海野幸恒から系図が始まることとなりました。

以上のように「清和天皇の子孫の滋野氏の末裔説」は、その説を真田氏が唱え出した当時から疑問視されたものでありました。

ちなみに真田氏がこれほど「清和天皇」にこだわった理由は、清和天皇は「清和源氏」という源氏の一派の祖であり、清和源氏は源頼朝や木曾義仲、足利尊氏のように、他の武士をまとめ上げる立場になれる程の、高貴で武名を轟かせた一族であったことに起因していると考えられています。

真田氏のルーツ説② 清和天皇の子孫ではないが滋野氏の末裔

2つ目は、「清和天皇とは関係ない滋野氏の末裔説」です。これは、真田氏(海野氏)が滋野氏の末裔を称していたことに由来します。

滋野氏は平安時代初期に編纂された『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』という系譜集によると、「紀直同祖(きのあたい)」で、「神魂命(かみむすびのみこと)五世孫天道根命(あめのみちねのみこと)」の末裔とされています。天道根命は天皇の末裔ではないので、平安時代には滋野氏は天皇家とは血縁の関係のない一族であると考えられていたことがわかります。

※紀直(きのあたい):紀伊国造(きいのくにのみやつこ、現在の和歌山県知事のようなもの)の一族で、紀貫之などの紀氏とは別の一族)と同じ一族という意味。

滋野氏の中で「もし滋野氏が本当に海野氏の先祖なら、その祖となったのはこの人物達だろう」と指摘されているのは、貞観10年(868年)から10年間信濃介(しなののすけ、現在の長野県副知事のようなもの)となった「滋野朝臣恒蔭(しげののあそんつねかげ)」や、貞観12年から4年間信濃守(しなののかみ、現在の長野県知事のようなものです)となった「滋野朝臣善根(しげののあそんよしね)」、そして天暦4年(950年)頃に望月の牧の牧監(牧場の管理者)に任じられた「滋野幸俊(しげののゆきとし)」です。前者2人は叔父・甥の関係にあるとされています。

彼らが海野氏の先祖なら、どのように信濃国に土着あるいは勢力を築いたのかについては、「地方官が任地に土着し、地方豪族となる例は少なくなかったので、滋野氏もそうであった」という説や、「滋野恒蔭や善根やその子供が直接信濃国に根付いたのではないが、寛弘6年(1089年)に信濃国から献上された馬の処置を司った、善根の子孫と考えられる『滋野朝臣善言(しげののあそんよしこと)』がいるように、早くから信濃国と滋野氏には深い関係があった」という説、「地方官が任地において荘園を経営したことは頻繁にあったので、滋野氏も荘園の管理者として信濃国に土着した」という説などがあります。

ちなみに「清和天皇の子孫の滋野氏の末裔説」で名前を上げた、滋野氏・海野氏・真田氏等の伝説上の祖である「善淵王」は滋野朝臣善根の名前が転化したという説があります。

滋野家訳が滋野宿禰の姓を賜る前は伊蘇志臣を名乗っており、家訳の祖父が伊蘇志臣の姓を賜る前は「楢原造(ならはらのみやつこ)」を名乗っていたのですが、この「楢原」は、現在も東御市にある「奈良原」に由来するという説もあります。ただし、楢原という地名は大和国(現在の奈良県です)や播磨国(現在の兵庫県です)にもあったことが判明しているので、確実ではありません。

真田氏のルーツ説③ 清和天皇の子孫でも滋野氏の末裔でもない

3つ目は「清和天皇の末裔でも、滋野氏の末裔でもない説」です。

この説は「海野氏の前身の一族が、都の滋野氏と婚姻関係を結ぶことで滋野氏を称することになった」というのが粗方の主張なのですが、「海野氏の前身」については、そのまま「海野氏」とする説、「不明」とする説、「大伴氏(おおともし)」とする説があります。

大伴氏は神話の時代から武力を持って天皇家に仕えた一族です。信濃国の大伴氏は、平安時代初期に編纂された『日本霊異記(にほんりょういき)』という書物に、「信濃国小県郡嬢里(おむなのさと=おんなのさと=海野郷?)人」の「大伴連忍勝(おおとものむらじおしかつ)」という人物が確認されています。そして、望月の牧があった場所のすぐ近くには、大伴神社が存在しています。そのために「滋野氏以前に海野や望月にいた大伴氏が海野氏(や望月氏)の先祖だろう」という説が存在しているのです。

私は個人的に、真田氏や海野氏は父系あるいは母系のどちらかで滋野氏の血を引いていると思いますが、判断はしきれません。この記事を読んだ皆様はどのように思ったのでしょうか。

読んでいただきありがとうございました。

参考文献

黒坂周平先生の喜寿を祝う会編『信濃の歴史と文化の研究 (一) 黒坂周平先生論文集』(信毎書籍印刷株式会社、1990年)
丸島和洋編『論集 戦国大名と国衆13 信濃真田氏』(岩田書院、2014年)

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この記事を書いた人

みかりん