長野県伊那市旧高遠町にある高遠城址公園は桜の名所として知られる公園です。国指定史跡に登録されており日本100名城にも認定された歴史も人気もある城跡ですが、高遠城自体の歴史は意外と知られていません。
そこで今回は高遠城の歴史を象徴的な出来事とともに歴史に沿って解説していきます。春の桜や秋の紅葉を見る前にこの記事を読むことで、高遠城址公園の見方も少し変わるかもしれません。
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高遠城の始まり〜武田氏による支配
高遠城の築城年代は不明ですが、当初は14世紀(南北朝時代)にこの地域を治めていた諏訪氏の一族である高遠氏の居城でした。
戦国時代になると1545年に武田信玄が伊那谷を攻略するために高遠を侵略、高遠城を取り囲み第7代当主の頼継は降伏しました。なお高遠氏は元々は武田氏と同盟関係にありましたが、諏訪地域の領有をめぐり対立したといわれています。これ以降、高遠城は武田氏の城となります。
戦国時代 武田氏が高遠城を支配した35年間
高遠城を押さえた武田氏は、1547年に山本勘助や秋山信友に命じ信玄流城構えの技法を用いての大規模な改築を行いました。この改築により本丸をはじめ、空掘りによって区画された強固な防衛ラインが誕生しました。そして1556年に秋山信友が城主となります。
1562年には諏訪氏の娘が母である信玄四男の武田勝頼が諏訪氏を継承し高遠城主となります。勝頼が信玄の後継者として高遠を離れた後は、信玄の弟 信廉や信玄の五男 盛信が城主になります。
城主が信玄に近しい人ばかりなことからわかるように、武田軍にとって高遠は南信濃を支配するための重要な拠点であり交通の要所として重要視されていました。
高遠城の戦いの舞台となる
1582年、織田信長は信玄亡き後の武田氏を一気に滅ぼすために嫡男信忠に5万の兵を与え高遠城を攻めました。
盛信は3000の兵を従えて徹底抗戦を試みますが、松尾城城主小笠原信嶺などの寝返りにより藤沢川の浅瀬を渡られ大手口、搦め手口から城内に攻め込まれ一日で落城しました。このとき城主の盛信は腹をかき切り、自らの手で腸を壁に投げつけて果てたと伝えられています。壮絶な戦いだったことがわかりますね。
また高遠城の落城からまもなく武田勝頼は天目山で自害したため、武田氏が滅びるキッカケとなった戦いともいわれているのです。
武田氏を滅ぼした織田信長もたった3ヶ月後に本能寺の変で亡くなります。短期間のうちに支配者を失った高遠を含む信濃国は大混乱に陥りました。混乱に乗じて次の城主となったのは現在の伊那市高遠藤沢に拠点を置いていた武田氏の旧臣 保科正直です。北条氏の力を借りた保科氏は、その後徳川家康の配下となり高遠城主となったのです。
※令和2年10月から、高遠町歴史博物館内でVRによる高遠城の戦いを再現した映像コンテンツを楽しめます。興味関心ある方はぜひ訪れた際に体験してみてください。
江戸時代〜現在の高遠城 桜の名所となるまで
江戸時代に入ると高遠城は高遠藩の藩庁となり1872年までの約270年間、徳川家譜代の京極氏、保科氏、鳥居氏が藩主として入城し1691年に内藤清枚が入城。それ以後明治維新まで内藤氏が8代にわたり城主をつとめました。
明治初期になると高遠藩は高遠県となり城内には県の役所が設置され、県知事の内藤頼直が県政を執りました。県知事の頼直は旧藩主で政務に関与したのも旧藩士だったので新体制といっても役職名が変わっただけで実態は旧藩時代とほとんど変わりませんでした。
1871年、合併により高遠県が廃止となります。役割を終えた高遠城は1872年に筑摩県へ引き渡され新政府の方針に基づいて廃城手続きが進められました。1875年、政府が進めていた公園化の方針を受けて高遠城跡の公園化が始まりました。
1876年、東高遠町は隣の河合村「桜ノ馬場」から、桜など樹々を掘り取り公園に植樹します。「桜ノ馬場」とは江戸時代に武士が馬の調練等を行っていた場所で、馬場の両脇に桜の大木が並ぶ高遠藩内随一の景勝地でした。その後も町内の他地域の桜の移植などを経て高遠城址公園は今日まで続く桜の名所となっていったのです。
高遠城と絵島生島事件
高遠城と関連する大事件として江戸時代中に世間を大きく騒がせた大奥スキャンダル「絵島(江島)生島事件」があります。
事が起きたのは1714年。徳川第七代将軍 家継の生母月光院に仕える御年寄江島は、主人の名代として菩提寺である芝・増上寺へ参拝に出向きます。その帰途で懇意にしていた呉服御用達の商人と合流し芝居小屋・山村座にて生島の芝居を見ました。芝居のあと、絵島と生島らは茶屋で宴会を開きましたが大奥の門限に遅れてしまいます。
後日この事が江戸城中に知れ渡り「大奥の風気が乱れている」と子どもを含め1500人が連座となりました。この事件の背景には当時の多くでの権力闘争・主導権争いがあったといわれていますが詳細は他記事を御覧ください。
事件の判決の結果、絵島は死刑の判決を下されますが月光院の願いによって高遠藩主内藤清枚・頼卿父子に預けられることになります。そして身柄は高遠に移され囲屋敷で制限だらけの27年の歳月を過ごし1741年に61歳で生涯を閉じました。
高遠歴史博物館に隣接する形で絵島囲み屋敷があり、当時絵島がどのような環境で暮らしていたかがわかるようになっています。現存する屋敷は当時の資料を元に1967年に復元されたものですが一見の価値ありです。
最後に-長野県の城跡や桜の名所を訪れよう!-
今回は高遠城の歴史と象徴的な出来事を紹介してきました。武田信玄、織田信長など歴史上の名将達がの名前が登場したことからも、ここが歴史的に重要な場所だったことがわかっていただけるかと思います。
長野県には高遠城以外にも訪れた城や城跡が多数あります。Skima信州では以下のような記事で長野県の城の楽しみ方を紹介しているので、ぜひ読んでみてください!
また高遠城は桜の名所としても知られています。長野県内には高遠城とあわせて訪れたい桜の名所も多数あるので、ぜひこちらの記事も読んで訪れてみてください!
参考資料
・大澤佳寿子, 高遠城跡と高遠のコヒガンザクラ樹林.
・絵島生島事件, 日本大百科全書.
・山岸良二, 大奥「最大のスキャンダル」絵島事件は冤罪か, 東洋経済ONLINE.
・高遠城, 日本の城がわかる事典.
・伊那市, 高遠城跡の魅力をご紹介.
・長野伊那谷, 高遠城物語.