長野県の諏訪(すわ)地方には、ほかの地域にはない独自の信仰が根付いています。諏訪大社だけでなく、諏訪7石や、七不思議、ミシャグジ信仰などが挙げられます。そのような諏訪独自の信仰の1つに、「守屋山と守屋神社」があります。
そこで、今回は守屋山・守屋神社や、これらに関する歴史や伝承について紹介します。確かなことが分かっていないことも多いですが、史料をもとに考察していきましょう。
守屋神社の奥宮は守屋山山頂に鎮座
まず守屋山と守屋神社の位置について紹介します。守屋山は、諏訪市と伊那市の境界にある山です。諏訪市から杖突峠を越えて高遠町に至る際に右側にある山がそれです。
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守屋神社は、高遠町藤沢にある登山口にあるものと、守屋山頂にある奥宮があります。
守屋神社に祀られているのは、物部守屋です。彼は、古墳時代の豪族で、大連(おおむらじ、大臣のようなもの)となり、蘇我氏と「仏教を日本に取り入れるかどうか」について、論争を行った結果、王権の中で孤立して、厩戸皇子(うまやどのおうじ、聖徳太子のこと)などの皇族や、蘇我氏などの豪族の連合軍に攻め込まれ、殺されました。
諏訪大神vs守屋大臣の伝承
次に守屋山と守屋神社の歴史と伝承について紹介します。
守屋神社の創建年は伝わっていません。寛永年間(1624年~1644年)に守屋神社に関する文書は燃えてしまったそうです。ただ、物部守屋の子供が当地に逃れ住んで、その子孫たちが祀ったという伝説があることはわかっています。また、その子孫は、明治時代には72戸になっていたそうです。
「守屋」について記された最古(諸説があるので後述します)の史料は、宝治3年(1249年)に書かれた『諏訪信重解状(すわのぶしげげじょう)』です。この「守屋山麓御垂迹事」という文章によると、諏訪大神(現在の建御名方神(たけみなかたのかみ))が諏訪に入り居住しようとしたところ、「守屋大臣(この神あるいは人物は一般的に物部守屋とされますが、物部守屋がなっていたのは大臣ではなく大連です)」が阻止しようとして、諏訪大神と争い、守屋大臣が敗北したために、諏訪大神が諏訪に居住し守屋大臣は追罰されたとされます。ただし、この史料は、後の史料を参考に記されたような部分が多々見られるなどの理由から、宝治3年(1249年)に記されたとするのは誤りであるとされています。
諏訪大社の大祝を代々務めた諏訪氏の系図である『神家系図』や『神氏系図』にも、第31代天皇・用明天皇(ようめいてんのう、聖徳太子の父)の時代に、諏訪大明神が守屋大臣を追罰し守屋山の麓に社を構えたと記されています。
明治時代に、諏訪大社の神長官を代々務めた守矢氏が編纂した『神長守矢氏系譜』には、守屋が、聖徳太子や蘇我氏などに攻められた際に実は諏訪に逃げ出しており、その子孫が諏訪大社の神長官を務めることになったことや、守屋の次男とされる弟君(別の伝承では武麿という名前です)が「森山(守屋山)」に隠れ住んで守矢氏の養子になったこと、時期は不明ですが、森山に守屋が祀られたために「守屋山」という名前になったことなどが記されています。
守矢氏の第78代目の現当主である守矢早苗氏によれば、現在神長官守矢史料館の敷地内にある古墳は武麿のものであるとのことです。
上に「諏訪大神vs守屋大臣」という伝承をいくつかあげました。これらの伝説の根源は「諏訪大神vs洩矢神(もりやのかみ、守矢氏の先祖)」の話であったと考えられています。というのも『諏訪信重解状』(の成立年が宝治3年(1249年)以降であるとすれば、これ)に先行する、正平11年・延文元年(1356年)に諏訪円忠(小坂円忠)によって記された『諏方大明神画詞(すわだいみょうじんえことば)』には、「諏訪大神vs洩矢神」の話が収録されているからです。
守屋大臣から物部守屋へ?
それでは、なせ洩矢神についての伝承が守屋大臣=物部守屋に取って変わられてしまったのでしょうか。
それは中世に広く流布していた「聖徳太子伝説」の影響を受けたからであると考えられています。例えば、守矢氏の文書には「諏訪大神に反抗していたのは実はわざとで、あえて守屋大臣が悪者になることで諏訪大神が英雄になり、世の中の人は諏訪大神を信仰するようになる(結構意訳です)」と記されたものがあるのですが、これは中世の聖徳太子伝説でも「物部守屋があえて悪役になることで日本に仏法を広める」という形で伝えられている物語の形式と同じなんです。
また上記の通り『神氏系図』の「用明天皇の時代」「聖徳太子と共に」守屋を討伐したという記述や、守屋を「誅す」という表現なども共通していると言われます。
洩矢神と物部守屋
初めに洩矢神と物部守屋を関連づけたのは、『諏方大明神画詞』を記した諏訪(小坂)円忠の『諏方大明神講式』であるとされます。この文書には「彼ノ物部守屋者、佛法之怨敵也。(中略)此ノ山家洩矢者、神明之敵也。(物部守屋は仏法の敵で、洩矢神は神明の敵)」と記されていて、対比構造になっています。また守屋山も「洩矢嶽」という表記がなされています。この史料から、後の洩矢神と物部守屋を同一視する流れが発生したと考えられます。
余談ですが、洩矢神と諏訪大神が対峙した際に、洩矢神は「鉄の鎰」や「鉄の輪」を用いて諏訪大神に対抗したと言われています。実際に、諏訪地方での古墳時代前半期(いわゆる「第Ⅰ期古墳」の時代)に築かれた古墳からは、鉄製の農具や鉄剣が出土しています。
諏訪大神が天から降りてきた際に所持していた神宝として真澄鏡(ますみのかがみ)、八栄鈴(やさかのすず)、唐鞍、轡(くつわ、手綱を付けるために馬に咥えさせる金属の棒)があったそうですが、実際に、諏訪地方での古墳時代後半期(いわゆる「第IⅠ期古墳」の時代)に築かれた古墳からは、馬関連の品物が出土しています。
その品物は、下伊那地方の古墳から出土するものと類似しているそうです。そのため、第II期古墳の頃に諏訪にやってきた集団は、下伊那地方から天竜川を遡って諏訪地方に至ったと考えられています。
読んでいただきありがとうございました。
諏訪貞通『神氏系図 前田古写本之写』(信州デジタルコモンズ、https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/museum_history/03OD0624101600)
諏訪教育会編『諏訪史料叢書 巻28』(諏訪教育会、1938年)
宮下一郎編『藤澤村史』(藤澤村、1942年)
諏訪円忠「諏方大明神講式」、竹内秀雄編『神道大系 神社編30 諏訪』(神道大系編纂会、1982年)
諏訪市史編纂委員会編『諏訪市史 上巻 原始・古代・中世』(諏訪市、1995年)
井原今朝男「鎌倉期の諏訪神社関係史料にみる神道と仏道 : 中世御記文の時代的特質について」『国立歴史民俗博物館研究報告 第139巻』(国立歴史民俗博物館、2008年)
寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』(岩田書院、2010年)
守矢早苗『神長官守矢史料館のしおり』(茅野市神長官守矢史料館、2017年)
山本ひろ子編『諏訪学』(国書刊行会、2018年)