現在は、南アルプスなどの山々に囲まれた南信州の秘境として名高い大鹿村。約700年ほど前に、当時の日本で5本の指に入るほどの重要な軍事的な拠点として、天皇の皇子である宗良親王(むねよししんのう)が約30年も大鹿村に滞在しました。
今回は、大鹿村を中心に長野県で活動し、「信濃宮」「信濃大王」などと呼ばれた宗良親王を、主に信濃国で活動していた時期について紹介しようと思います。
宗良親王(むねよししんのう)とは?
宗良親王は、応長元年(1311年)に生まれ、鎌倉時代から南北朝時代にかけて活動した皇族です。父親は後醍醐天皇(ごだいごてんのう)で、鎌倉幕府や北条氏などを倒し、さまざまな改革を積極的に行った(結果的にそれは失敗して日本中の殆どの人間から反感を買いましたが)天皇でした。
母親は『新古今和歌集』などを編纂した藤原俊成(としなり、しゅんぜい)や、百人一首・『新撰和歌集』などを編纂した藤原定家(さだいえ/ていか)の末裔である二条家の人間であったため、親王自身も和歌に通じた人間へと成長しました。
宗良親王の生涯
元徳2年(1330年)には、法親王(出家した天皇の子供)として天台座主(てんだいざす、仏教の一宗派である天台宗の僧侶たちのトップ)となりましたが、翌年の元弘元年(1331年)には、元弘の変(後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとした計画が幕府側に発覚した事件)が発生し、還俗(僧侶の身から俗人に戻ること)させられたのちに讃岐国(現在の香川県)に流罪となりました。
後醍醐天皇が倒幕に成功すると、親王は再び天台座主になりましたが、後醍醐の行った「建武の新政(けんむのしんせい)」が悉く失敗し、主に足利尊氏(あしかがたかうじ)をトップとする武家層が光厳天皇(こうごんてんのう)を旗印に後醍醐に反旗を翻したため、後醍醐は大和国(現在の奈良県)の吉野へ逃れ、北朝(光厳天皇や足利尊氏などの勢力)と南朝(後醍醐などの勢力)が対立する南北朝時代が始まりました。
後醍醐は、自身の子供たちを日本各地に派遣し、南朝方の旗印とすることを図り、親王もその対象となりました。そのため、天台座主から再び還俗し、伊勢国(現在の三重県)、遠江国(現在の静岡県の西側)、越後国(現在の新潟県)、越中国(現在の富山県)などを転々としました。
そののち、興国4年あるいは5年(1343年あるいは1344年)に、信濃国大河原(現在の大鹿村)に移り、文中2年(1373年)までの約30年間をそこで過ごしました。親王がこれだけの長い期間信濃国を拠点としたのは、信濃国が本州や畿内と東国との中央部に位置し、米穀生産高が約1万人以上を兵士として動員できるほどのものであったためでした。
親王が信濃入りする際にこれを支持したのは、諏訪氏・滋野氏(香坂氏(こうさかし))でした。親王は「幸坂の宮(こうさかのみや)」とも呼ばれますが、これは彼を支援した香坂氏に由来しています。
大河原入りした親王は、何度か信濃国の外に進軍はしたものの、その軍事作戦は成功せず、それ以外の時には大河原にて和歌を多く詠んでいました。それらは『李花集』に収録されており、現在も見ることができます。
正平10年(1355年)8月20日には、親王は現在の塩尻市に出兵し、桔梗ヶ原合戦が勃発しましたが、北朝軍に敗北し、信濃武士の離反も起こりました。それからは大規模な出兵・軍事作戦は画策されるも行われることはなく、20年ほどを大河原にて過ごしました。
正平14年(1359年)には、親王の外従兄弟の二条為定が『新千載和歌集(しんせんざいわかしゅう)』を、正平19年(1364年)には、同じく親王の外従兄弟の二条為明が『新拾遺和歌集(しんしゅういわかしゅう)』を編纂しました。
この時親王は自身の和歌を2人に送ったと言われていますが、2つの和歌集は北朝の意向で編纂されたものであったため、南朝の人間である親王の歌は選ばれることはありませんでした。このことから、親王は自ら和歌集を編纂しようと考えるようになったと言われています。
文中3年(1374年)には、ついに大河原を去って南朝の本拠地であった吉野へと移りました。吉野では南朝歌人の歌を集め、天寿4年(1379年)初冬に、親王は再び信濃国に下向しました(天寿3年(1378年)とする江戸時代の書物がありますが、これは誤りです)。
この頃親王の子供が亡くなっていますが、それに関する歌が『新葉和歌集』に収録されています。この子供の名前は、和歌集で名前が記されていないため不明です。興良親王(おきよししんのう)を宗良親王の子供とする江戸時代の書物もありますが、興良親王は宗良親王の兄弟の護良親王(もりよししんのう)の子供であることが確定しているため、誤りとなります。
弘和元年(1381年)には吉野へと戻り、完成した『新葉和歌集(しんようわかしゅう)』を当時の南朝方の天皇である長慶天皇に献上しました。この和歌集は長慶天皇に「勅撰に準ずる」と言われたため、「準勅撰和歌集(じゅんちょくせんわかしゅう)」と呼ばれます。
『新葉和歌集』完成後の親王は、正確な記録が伝わっていません。親王の薨去(死亡)した地は、遠江国井伊谷説、信濃国浪合説、信濃国大河原説、信濃国長谷説、越後国粟岳麓説などがありますが、現在は大河原で薨去したとする説が一般的です(正確には大河原から少し離れた大草(現在の上伊那郡中川村)です)。
近年発見された「京都醍醐三宝院文書」には、「(宗良親王は)大草と申奥のさとの大川原と申所にて、むなしくならせ給」とあるためです。ただし、宮内庁が否定している宗良親王の墓は静岡県の井伊谷にあります。薨去した年も正確な記録はないものの、元中6年(1389年)に成立した『耕雲千首』という和歌集には「故信州大王」とあるため、1381年に『新葉和歌集』が成立してから1389年までの間に薨去したと考えられています。
宗良親王の子供は、上で述べた、『新葉和歌集』成立直前に亡くなった名称不明の子供のほかに、禰知盛継や越後国の村山氏に擁立された明光宮(わかのみや)がいるとされます(ただし、明光宮は曽祖父・亀山天皇の子・恒明親王の子供とする文書もあります)。
宗良親王にまつわる伝説とゆかりの地
尹良親王(ゆきよししんのう)という子供がいるとされることもありますが、この人物は江戸時代の物語上で創作されたため、実在していません。
宗良親王に関連する史跡・伝承地は長野県に沢山あります。沢山ありすぎて私も全てを把握できているわけではないと思うので、とりあえず幾つか選んで紹介します。
千曲市の柏王神社は、親王を祀っており、親王が髻(髪の毛を頭の上で束ねた所)を奉納したという伝説があります。大町市の神龍山大沢禅寺跡には、親王の子供とされる明光宮の墓と伝わるものがあります。
塩尻市の広出には宗良親王が北朝方と激戦を繰り広げた桔梗ヶ原合戦の跡地であるとする碑文があります。
岡谷市の柴宮(正八幡宮)は宗良親王の御座所(滞在した所)であるとされます。
伊那市長谷の常福寺やその付近には、十六弁菊花の紋章と尊澄法親王(宗良親王の出家していた時の名前)の文字が刻まれた円形無縫塔や、親王の墓と伝わる御山があります。
伊那市高遠の弘妙寺には、親王の墓と伝わる石があります。
中川村の大草城趾は、上で記したように、宗良親王の薨去した地でいるとされます。
大鹿村には、親王が拠点とした大河原城、親王を補佐した香坂高宗の墓がある福徳寺、親王を祀る信濃宮神社、親王が住んだ御所平などがあります。
また、正確にそう記録が残っているというわけではありませんが、飯田市の青崩峠を通って大河原と遠江国を往来したと考えられています。
信濃大王「宗良親王」とは?まとめ
最後に、宗良親王の残した和歌で特に好きなものを紹介します。
かへる雁なにいそぐらむ思ひ出もなき古郷の山と知らずや(北に帰る雁達は故郷に思い出があるので急いでいるのだろうか。故郷に思い出などない私の心中など知らずに)
→南北朝の動乱で京都へいることはできなかった上、30年以上も東国を転々としていた親王の都への思いと諦めを感じる歌で大好きです。
いづかたも山の端ちかき柴の戸は月見る空やすくなかるらむ(どこを見ても山が迫っている我が家からは、月を眺められる空は少ししか見えないだろう)。
へだてゆくゐな野の原の夕霧に宿ありとても誰かとふべき(夕霧によって、人里と伊那野の原が隔てられ、そこ(伊那野)に我が家があっても、誰が尋ねて来るだろう)。
以上の2歌は、大河原が今も昔も他の地域から隔絶されており、今私達が大河原を訪れてそよ山深さに感嘆するのと、親王が感じた思いが同じなのだろうと思えるのが好きです。
大町市史編纂委員会『大町市史 第二巻 原始・古代・中世』(大町市、1985年)
黒河内谷右衛門『宗良親王全集』(甲陽書房、1988年)
安井久善『宗良親王の研究』(笠間書院、1994年)
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