【鎌倉殿の13人】信州ゆかりの「中野能成(なかのよしなり)」とはどんな人物?

中野能成とは?源頼家の5人の近習

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鎌倉時代の北信地方の武士といえば、高梨氏や井上氏を思い浮かべる方が多いと思います。

しかしかつて、現在の中野市一帯に広がっていた中野郷や、志久見山(志久見郷・樒郷とも)には、「中野氏」という一族が勢力を広げていました。
今回は中野氏の武士で、北条氏による一方的な族滅が繰り広げられた鎌倉時代の初期に暗躍した、中野能成(なかのよしなり)について紹介しようと思います。

中野氏とは?現中野市で勢力を広げた武家

中野氏は平将門(たいらのまさかど)の乱を平定した藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の末裔であるとされます。詳しい過去は不明ですが、藤原助弘(ふじわらのすけひろ)という人物が、木曾義仲によって中野郷を安堵(あんど、領地として認められること)されたのがおそらく初見です。

その後義仲が戦死する直前に、義仲と対立していた源頼朝の弟・阿野全成によって、中野郷西条の下司職(げししき、荘園に在地して荘務を司る職です)に任じられ、さらにその3ヶ月後に志久見山の地主職に任じられていることから、義仲の勢力が瓦解する以前には頼朝方に与していたと考えられます。

鎌倉幕府が成立すると、中野郷と志久見山の地頭として認められて、晴れて御家人の仲間入りをしました。

「中野能成」とは?源頼家の側近のひとり

助弘の子が、今回の主役・能成です。能成は、初めて「中野」を苗字としました。なので、厳密には彼からが「中野氏」です。

能成は御家人として、文治5年(1189年)に起こった奥州藤原氏を討つための奥州合戦に従軍したり、頼朝の上洛にお供として付いていったりしました。

頼朝の死後には、頼朝の子で2代目将軍の源頼家(みなもとのよりいえ)の5人の近習(きんじゅ、側近のようなものです)のうちの1人となりました。当時頼家の力を削ぐため、北条氏が中心となって「十三人の合議制(じゅうさんにんのごうぎせい)」という頼家の意志をシャットアウトするようなシステムによって幕政が運営されていました。

その後将軍の側近であった梶原景時(かじわらかげとき)が一族もろとも滅ぼされていたのですが、そこで北条氏などに対抗するために選ばれたのが、頼家の近習でした。頼家の近習5人の鎌倉での行動には一切の手立てが禁止されていました。

中野能成が5人の近習になった理由は?

なぜ北信地方の普通の御家人が、将軍の5本の指に入る近習となることができたのでしょうか。

当時鎌倉の源氏と深い繋がりのあった比企氏(ひきし)、特に比企能員(ひきよしかず)が関係してきます。能員は、頼朝の乳母であり、流人時代の頼朝を約20年間支え続けた比企尼(ひきのあま)の養子で、頼朝の腹心でもありました。そして、頼家に娘を嫁がせており、頼家と比企能員の間には男児がいました。

鎌倉時代初期の信濃国は、頼朝の知行国(ちぎょうこく、知行主が行政や支配の実権を持ち、その国の収益を得ていました)であったのですが、信濃国の守護(しゅご、鎌倉幕府が国単位で設置した軍事・行政における指揮官です)として比企能員が選ばれていることからも、その関係の深さが窺えます。

比企能員が信濃国の守護であったからこそ、信濃国の御家人である能成が頼家の近習として抜擢されたのでした。あるいは、中野氏と比企能員に族縁関係があったとする説もあります。また、能成以外の頼家の近習4人も、北条氏方のスパイである北条時房を除いて比企氏やその縁者でした。

中野能成の最期?「比企能員の変」

北条氏との確執は、ただのギスギスだけでは終わりませんでした。建仁3年(1203年)9月2日に、事件が起きます。「比企能員の変」です。この変について、鎌倉幕府が編纂した幕府公認の歴史書である、正安2年(1300年)頃に成立した『吾妻鏡』に基づいて記していきます。

この日、頼家と能員は、北条時政を討つ計画を立てていました。しかし、計画が時政に漏れ、能員やその一族は殺されてしまいました。頼家はその時はお咎めはなかったものの、後に伊豆の修善寺(しゅぜんじ)に幽閉され、北条氏が放った刺客によって暗殺されました。頼家の近習であった能成も、頼家方の人間として当然捕まり、9月19日に、所領を没収された上で流罪となりました。

…と、ここまでが『吾妻鏡』の記述です。しかし実は、その後の能成の処遇を知ることができる史料が残っていました。それは「市河文書」です。「市河文書」は、中野氏から志久見山の支配権を獲得した一族・市河氏に伝来した文書で、市河氏だけでなく、中野氏についての文書も含まれています。

「市河文書」には、『吾妻鏡』では能成が拘束されたとする建仁3年(1203年) 9月19日に、「時政によって所領を安堵され、さらにその所領を免税地とされた」という旨の文書が残されているのです。

能員方だった能成が、変の直後に時政によって所領を安堵されている理由は何故なのでしょうか。それは能成が初めから時政と通じていて、能員方の行動や、立てた計画の情報を、時政に伝える、いわゆる「スパイ」として活動していたからです(諸説あります)。

その後の能成についても「市河文書」に見えます。貞応3年(元仁元年、1224年)にも、所領の没収と還補が行われており、これは同年に起こった「伊賀氏の変(内容は比企能員の変と同じようなもので、北条氏による他氏排斥計画のひとつです)」でも能成がスパイとして活動していたことを表していると言われます。

ちなみに、伊賀氏の変で首謀者とされた伊賀光宗は、信濃国麻績御厨(現在の麻績村)に流されたとされ、そこでの彼の旧友との和歌の贈答が『信生法師日記(しんしょうほうしにっき)』に残されており、現在の聖高原駅の前に歌碑があります。

個人的に北条氏はあんまり好きではありません。この記事を読んだらその理由の一端が伝わるんじゃないかなって思います。読んでいただきありがとうございました。

参考文献

・石井進『日本の歴史 7 鎌倉幕府』(中公文庫、1974年)
・中野市誌編纂委員会編『中野市誌』(中野市、1981年)
・牛山佳幸「「市河文書」注釈稿(三)」、信州大学教育学部紀要編集委員会『信州大学教育学部紀要』(信州大学教育学部、1992年)
・奥富敬之『吾妻鏡の謎』(吉川弘文館、2009年)

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この記事を書いた人

みかりん