古墳・飛鳥時代の「名代・御名入部」とは?長野県の名代まとめ

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古墳・飛鳥時代の天皇や皇族は、自身の名前や事績を後世に伝えるために、「名代(なしろ)」という集団を編成しました。長野県(信濃国)にも、そのような名代は存在したことが、断片的ではありますが、史料や資料から確認できます。

そこで、今回は信濃国の名代について紹介しようと思います。また、名代の他にも、朝廷との関係を窺える集団についても紹介します。

名代(なしろ)とは?

名代とは、古墳・飛鳥時代の天皇や皇族の名前や皇居名に由来する集団です。『古事記』に登場する用語であり、『日本書紀』の「御名入部」に相当するとみられています。名代を敬って「御名代」ということもあります。

▼長野県で確認できた名代一覧

  • 建部(たけるべ、たけべ)
  • 刑部(おさかべ)
  • 小長谷部(おはつせべ)
  • 金刺部(かねさしべ)
  • 他田部(おさだべ)
  • 倉橋部・椋椅部(くらはしべ)

日本武尊の名代?「建部(たけるべ、たけべ)」

初めの名代は、「建部(たけるべ、たけべ)」です。建部は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の名代であるとされます。ただ日本武尊は伝説的な側面が強い(ヤマトタケルという名前もザ・伝説という感じですしね)ため、実際は誰の名代なのかは不明です(日本武尊が実在していたという可能性もあります)。

史書に見える信濃国の建部は、建部大垣(たけるべのおおがき)です。彼は、『続日本紀(しょくにほんぎ)』神護景雲2年(768年)5月辛未条によると、更級郡の人で、人に恭順であり、親孝行な人であったため、朝廷によって税金が免除されたそうです。

長野市信州新町竹房地区の武冨佐神社には、神社にある古墳が大垣の墓であるという伝説があるそうです。

「刑部(おさかべ)」

次の名代は「刑部(おさかべ)」です。刑部は、第19代天皇・允恭天皇(いんぎょうてんのう)の后・忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめのみこと)の名代であるとされます。忍坂部が縮まって刑部、というわけです。あるいは、忍坂大中姫命の名代ではなく、「オシサカの宮」を皇居としていた天皇(現時点では『古事記』や『日本書紀』にそのような天皇はいませんが、隅田八幡神社人物画像鏡という古墳時代の鏡の銘文に「意柴沙加宮(おしさかのみや)」とあるので、実際はいた可能性があります)に由来するとする説もあります。

史書に見える信濃国の刑部は、刑部智麻呂(おさかべのともまろ)です。彼は水内郡の人間であり、「友との情が篤く、苦楽を共にするような人物」であったため、建部大垣と共に税金を免除されています。また、人名ではありませんが、佐久郡に刑部郷という地域があり、そこにも刑部がいたと考えられています。

姨捨の由来?「小長谷部(おはつせべ)」

長野市長谷寺のあじさい寺
長谷寺(長野市篠ノ井)
千曲市姨捨中秋の名月
姨捨の棚田(千曲市)

次の名代は、「小長谷部(おはつせべ)」です。小長谷部は、第25代天皇・武烈天皇(ぶれつてんのう)の名代で、彼の諱(本名)の「小長谷若雀命(おはつせのわかさざきのみこと)」に由来します。

史書や資料に見える信濃国の小長谷部は、小長谷部笠麻呂(おはつせべのかさまろ)と小長谷部尼麻呂(おはつせべのねまろ)がいます。

笠麻呂は、天平勝宝7年(755年)に防人(さきもり、朝鮮・唐からの侵攻に備えるために東国から九州に送られた兵士)となった人物で、『万葉集』に彼の和歌が収録されています。

以下は彼の歌です。

大君の 命畏み 青雲の とのびく山を 越よて来ぬかむ

(天皇の命令に従って、青雲がたなびく山を越えて(難波の津(現在の大阪市で、防人はここまで陸路で来て、ここからは船で九州に向かった)に)来た。原文:意保枳美能 美己等可之古美 阿乎久牟乃 等能妣久夜麻乎 古与弖伎怒加牟)
彼は東国人なので、当時の東国の方言がそのまま和歌に残っています(たなびく→とのびくなど)。

小長谷部尼麻呂は、筑摩郡山家郷の人で、天平勝宝4年(752年)10月に、調(税金の一種で、布を献上しました)を献上しています。

小長谷部は、記録には残っていませんが、筑摩郡だけでなく更級郡にもいたと考えられています。その証拠に、長野市篠ノ井には長谷寺・長谷神社・長谷という地名があり、姨捨山(おばすてやま)の姨捨も小長谷部(おはつせ)に由来するとする説もあります。

「金刺部(かなさしべ)」

次の名代は、「金刺部(かなさしべ)」です。金刺部は、第29代天皇・欽明天皇(きんめいてんのう)の名代で、彼の皇居の磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)に由来します。

更埴インターチェンジ建設の際に発見された屋代遺跡からは「金刺部富止(かなさしべのふと)」など、複数の金刺部の人物が書かれた木簡が出土しましたが、どのような人達であったかは不明です。

名代ではないのですが、「金刺舎人(かなさしのとねり)氏」と呼ばれる集団もいました。彼らは科野国造(現在でいう長野県知事)の一族で、諸説はありますが、「阿蘇系図」という系図によると、神八井耳命(かむやいみみのみこと、初代天皇・神武天皇の皇子です)の末裔の金弓君(かねゆみのきみ)が欽明天皇の金刺宮で舎人(近衛兵のようなものです)として活動したため、金刺舎人氏を名乗るようになったといいます。

金刺舎人氏は後の伊那郡、水内郡、埴科郡、諏訪郡に分布していたことが確認されています。金刺舎人氏の中でも特筆すべきなのは金刺舎人八麻呂(かなさしのとねりのはちまろ)です。彼は、「信濃国牧主当(しなののくにのまきのしゅとう?、信濃国にあった牧場の長官です)」という職と、伊那郡の郡司を兼ねていました。郡司というのは、645年以降に行われた改革・大化の改新によって国造が変化した職です。基本的には世襲だったので、八麻呂も伊那郡の伝統的な豪族であったと考えられます。

彼が住んでいたと考えられる遺跡に、飯田市座光寺の「恒川遺跡(ごんがいせき)」があります。ここからは、6世紀から7世紀の住居跡や、畿内から直接的に到来したと思われる土器が多数存在しました。さらに、恒川遺跡の周辺には、前方後円墳の高岡一号墳をはじめとする古墳群も存在し、伊那郡の金刺舎人氏の墓であったとされます。

八麻呂は天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の乱という反乱でも功績を残しています。加えて、それより約90年前に発生した壬申の乱という大乱でも、金刺舎人氏の同族である多氏(おおし)の多品治(おおのほんじ)に従い、戦果を上げたと考えられているため、金刺舎人氏は代々強い武力を有した一族であったことがわかります。

「他田部(おさだべ)」

次の名代は「他田部(おさだべ)」です。他田部は、第30代天皇・敏達天皇(びだつてんのう)の名代で、彼の皇居の訳語田幸玉宮(おさだのさきたまのみや)に由来します。他田部は屋代遺跡の木簡に名前が見えるだけで、それ以外のことはわかっていません。

他田舎人氏という一族もいたのですが、金刺舎人氏と同族で、立場や役割もあまり変わらないので省略します。

久米舎人(くめのとねり)氏

次に紹介するのは、名代ではないのですが、久米舎人(くめのとねり)氏です。久米舎人氏は、来目皇子(くめのみこ、第31代天皇・用明天皇の皇子で厩戸皇子(聖徳太子)の弟です)あるいは第23代天皇・顕宗天皇(けんぞうてんのう、別名が来目稚子(くめのわくご))に由来すると考えられています。

久米舎人氏について、詳しいことは判明していませんが、天皇や皇族に関係する「久米」という名詞と「舎人」が組み合わさっていることから、金刺舎人氏や他田舎人氏と同じように、国造の一族で天皇や皇族の舎人として活躍した可能性があります。

史書に見える久米舎人は、久米舎人望足(くめのとねりのもちたり)です。彼は、小県郡の人で、信濃国介(現在でいう長野県副知事)の石川清主(いしかわのきよぬし)を暗殺しようとしたことで讃岐国(現在の香川県)に流罪となりました。望足が清主を暗殺しようとした理由は不明ですが、この頃に信濃国府(現在でいう長野県庁)が現在の上田市から松本市に移転したことに関係するとする説があります。

「倉橋部・椋椅部(くらはしべ)」

次に紹介するのは、「倉橋部・椋椅部(どちらもくらはしべと読みます)」です。倉橋部は、第32代天皇・崇峻天皇(すしゅんてんのう)の皇居・倉梯柴垣宮(くらはしのしばがきのみや)に由来します。

信濃国の倉橋部は、倉橋部広人(くらはしべのひろひと)と椋椅部逆(くらはしべのさかう、あるいはさかさ)が確認されています。

倉橋部広人は、水内郡の人で、神護景雲2年(768年)5月に、私的に貯めていた稲6万束を用いて周りの貧窮していた農民の税を肩代わりしたため、朝廷によって自身の税を免除されました。広人が行ったのは、いわゆる「私出挙(しすいこ)」と呼ばれる行為です。

出挙とは、貧民を救済したり、種子とする稲を持たない農民に稲を貸して、秋の収穫期に利息をつけて返済させたりするというシステムでした。出挙には私出挙の他に「公出挙(くすいこ)」も存在し、こちらは国が保管していた稲を出挙とするシステムで、信濃国の場合は年12万束まで貸し付けることが許可されていました。

椋椅部逆は、筑摩郡山家郷の人で、平城京に出仕していたことが出土した木簡の記述に残っています。

倉橋部以降は、名代というシステム自体が衰退していき、大化の改新によって完全に過去のものとなりました。

「天皇や皇族に由来する名前を集団につける」という行いが為されたことで、『古事記』や『日本書紀』といった史書以前の朝廷と信濃国との関係が窺えるのは面白いと思います。読んでいただきありがとうございました。

参考文献
・松崎岩夫『信濃古代史の中の人々』(信濃古代文化研究所、1987年)
・「朝廷が親孝行とほめた更級の建部大垣ーゆかり伝承の武冨佐神社」(さらしなルネサンス、2016年5月29日、http://sarashina-r.com/rekishi/takebusa/)

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この記事を書いた人

みかりん