遠い会津で郷土食になった「高遠そば」のヒミツ

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高遠(たかとお)そばといえば長野県伊那市の東部にある高遠町が思い浮かびますが、福島県会津地方にも同じく「高遠そば」があるのをご存知ですか?

「たかとお」というお名前は珍しいし、偶然ではなさそうですね。ではなぜ遠く離れた会津に同じお名前の郷土食が存在しているのでしょうか。

これには高遠藩主と会津藩主を務めた保科正之(ほしなまさゆき)が深く関わっているのです。

徳川家康の孫「保科正之」

保科正之(ほしなまさゆき)は徳川2代将軍秀忠の四男、つまり徳川家康の孫にあたります。母は秀忠の乳母の侍女でお静といいました。秀忠の正室・お江の方が嫉妬深く側室を認めなかったため、正之は匿われて育てられることになります。7歳で信州高遠城主保科正光の養子になり、21歳で高遠3万石、26歳で出羽国山形20万石、33歳の時に会津23万石の城主となりました。

会津藩主になった正之は、新しい発想をもって会津の国づくりに取り組みます。年貢の軽減に加え「90歳以上の人には1日あたり3合の米を支給する」という、世界で初めての年金制度をつくりました。また国の発展には教育が大切だと考えた正之は、武士や庶民などの区別なく勉強ができる「稽古堂」という学校をつくり、優秀な人材を多く輩出した会津藩学校「日新館(にっしんかん)」の基礎になりました。

名前保科正之
よみがなほしなまさゆき
出身地江戸
生没1611年〜1673年
ゆかりの地高遠町(伊那市)

蕎麦好きな正之が広めた「高遠そば」

そんな正之は無類の蕎麦好きとしても知られ、山形や会津へ移る際にも蕎麦職人を連れて行き、各地で蕎麦を広めたといわれています。会津藩や日本のために尽力した正之の人望は厚く、会津で広まった蕎麦は、正之が元は高遠藩主であったことに由来して「高遠そば」と呼ばれました

一方の高遠町では「蕎麦は家庭料理」であり、郷土食としては根付いているものの蕎麦屋は少なく、名前も付けられていませんでした。平成初期、会津地方に根付いた「高遠そば」を地域活性化に役立てようと、発祥地である高遠町にお名前が逆輸入されたことで、高遠町のお蕎麦屋さんでも「高遠そば」が食べられるようになったということです。

「高遠そば」の食べ方いろいろ

伊那市高遠そばますや
高遠そば「ますや」

高遠そばは、辛味大根の搾り汁と焼き味噌をそば汁にする「からつゆ」スタイル

お蕎麦は白くて細め。辛味大根の辛味でそばの甘さを引き立てつつ、焼き味噌の旨味で大根の辛さを中和します。擦ったクルミを入れるとまろやかさや甘さがプラスされますよ。江戸初期にはまだ「醤油」がなく、当時の一般的な食べ方でした。

大内宿|福島町会津地方
大内宿|福島町会津地方
大内宿の高遠そばのネギ

ちなみに江戸時代の風情を残す福島県下郷町の宿場町「大内宿」では、高遠そばにネギを1本丸ごと添えた「ねぎそば」も有名。大内宿では婚礼の際にねぎそばを食べていたことから、観光用の名物として提供されるようになりました。ネギを箸のように使ってお蕎麦と一緒にかじりながら食べる独特のスタイルは、そのインパクトもあって観光客に人気のメニューです。

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この記事を書いた人

信州さーもん

スキマな観光ライター。長野県内外、国外を旅します。長野県観光WEBメディア「Skima信州(http://skima-shinshu.com )」代表。道祖神宿場街道滝ダムため池棚田神社仏閣好きな平成生まれの魚。浅い知識を浅いままに増やしています。企画・アイディアを出すのが得意。たぶん。