長野市鬼無里の「祭り舞台」を知ろう!-きなさでお茶講イベントレポ-

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歴史や地域社会の状況などが複雑に絡まる網の中で、数十年、数百年と開催され続ける「お祭り」には、その地域らしさが現れます。

7月18日に長野市鬼無里で開催された「きなさでお茶講 #鬼無里の祭屋台は、どうしてこんなにすごいの?」では、講師の長野市立博物館 樋口明里さんから、鬼無里のお祭りの特徴と現状についてお話を聞いてきました!

Skima信州代表がファシリテーターを務めたこのイベントでは、鬼無里の祭り屋台の特徴を長野市内の屋台や各時代との比較を通して知ることができました。当日は若手~80歳超えの方まで鬼無里の方も多く参加していたので、皆さんの経験と記憶も伺いながら、奥深い鬼無里のお祭りについて学びました。

今回は、イベント内容をもとに鬼無里のお祭りの屋台について歴史や起源、意味を簡単に紹介していきます。

「屋台」ってなんだろう?地域によって呼称が違う!

長野市鬼無里でお茶講

鬼無里ではお祭りの際に引く写真のようなものを、「屋台」と呼びます。その構造は北信地域では一般的なもの、江戸時代中期に成立して以降、後期に広がったといわれています。

地域によって呼び方は異なり、北信地域では屋台と呼びますが、中信地域では「舞台」と呼ばれたり、他の地域では「山車」と呼ばれたりもしています。おもしろいですね。

鬼無里の屋台はいつ、だれがつくったのか?

長野市鬼無里でお茶講

普段は鬼無里ふるさと資料館に展示されている鬼無里の舞台。一体それらが、いつ、誰によってつくられたのかも樋口さんが解説してくださいました。

制作時期は江戸時代末期~明治時代初期頃、製作者は善光寺の大工とのこと。

立派なことで知られる屋台の彫刻は、彫刻作家の北村喜代松と一部弟子によってつくられたといわれています。妻のフサは鬼無里の生まれということで、鬼無里と縁深い彫士が掘ったんですね。

鬼無里の屋台自慢

祭り屋台は住民にとってアイデンティティの一部を形成する大切なものです。地区同士や、長野市内と比較しておらが街の屋台自慢が語られることもしばしば。

樋口さんの調査によれば、まず鬼無里の屋台は「彫刻が立派である」ことを自慢するそうです。また長野市内の塗られた屋台と比較して鬼無里の屋台は「白木がよい」とも語られるそうです。

イベント内では、長野市内では塗ることがお金があることの象徴だったから塗ったのではという話や、鬼無里は乾燥しているが長野市内は湿気があるため塗らないと白木が傷んでしまうから塗ったなどの説が参加者や講師の方から語られました。

屋台から、その地域のアイデンティティや精神的よりどころ、特徴が浮かび上がってくるのはとても興味深いですね。

鬼無里の屋台の起源

長野市鬼無里でお茶講

起源については定かではありませんが、明治時代中期までは8月25日の祇園祭で全ての屋台が町区に集まり、曳きだされたといいます。その後、明治時代後期になると祇園祭は秋の例大祭に変わりました。

鬼無里村100周年を記念して数年前に現存する屋台が集合したことがありました。現在は、町(鬼無里神社)の屋台が、唯一、鬼無里神社春季例大祭で曳きだされます。

もともとお祭りは静かなものでしたが、時代を経る中でにぎやかなものへと変わっていったといいます。昭和末期には多くの観光客がバスで訪れ芸能人を呼ぶなど賑わいのピークを迎えましたが、現在はその当時よりは落ち着いたものになっているとのこと。

80歳を超えた参加者の方は、「お祭りは賑やかなほうがいいよね」と語っており、年々にぎやかになるお祭りがとても楽しみだったと語っていました。

過疎化と少子化の影響を受ける祭り

鬼無里に限らず、多くの地域では過疎化と少子高齢化によりお祭りの存続が難しくなっています。鬼無里でも、町区の屋台以外は現在は使われることはありません。

伝承が途絶えると復活させることが難しいお祭り。鬼無里では、現在でも自分の時間を削ってお祭りの練習に充てる住民が一定数いたり、お祭りのときには帰ってくる交流人口が一定数いたりするため行事が続いています。

しかし今後は伝承もより難しくなっていくと考えられるため、参加者からは「関係人口をうまく巻き込むことが大切だ」「いまのうちに録画録音したり、譜面にすることも必要かもしれない」などの意見が出されました。

2000年代中頃に「限界集落」という言葉が、一般化しました。この言葉の定義は2つの要素から構成されていますが、広く認知されているのは「人口の50%以上が65歳以上の高齢化」という部分です。

この部分だけをみると鬼無里は限界集落です。しかし、限界集落にはもうひとつの要素があります。それは「冠婚葬祭などを含む社会的共同生活や集落の維持が困難になりつつある集落」というものです。

鬼無里では伝統を守りながら、時代にあわせて臨機応変にそのスタイルを変えることで新たな伝統を構築し、冠婚葬祭の「祭」を今日まで継続してきました。この観点からみれば、鬼無里はまだまだ限界集落ではないのです。

田舎は保守的といわれますが、伝統を守りつつ、時代に合わせて発展させていくのが本来の保守性のあるべき姿です。伝統を守り継続するために、住民にとって無理のない範囲で変えられる部分は変えながら、その存在自体は絶やさない。そういった創造的で前向きな「伝統を守る」取り組みと思いを、イベントを通して実感しました。

最後に–屋台を見に鬼無里ふるさと資料館に行こう!

長野市鬼無里でお茶講

今回は鬼無里の祭り屋台について、鬼無里で行われたイベントの内容をもとにわかりやすく紹介してきました。祭りの伝統は古く史実が確かめられない部分もありますが、時代にあわせて変化し祭りの伝統がつくられていくプロセスはとてもおもしろかったです。

鬼無里の屋台は、鬼無里ふるさと資料館を訪れればいつでも見学可能です。写真で見るのと実物を見るのとでは、その迫力や美しさは全く違うので、ぜひ足を運んでみてください!

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この記事を書いた人

Skima信州編集部

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