長野県の廃仏毀釈における「首を斬られた石仏」たちの分類考

※当サイトのコンテンツにはプロモーション(広告)が含まれています

明治時代初期、明治政府による神仏分離令から発展した過激な仏教排斥運動により「廃寺」「仏像の撤去・破壊」「地蔵祭等の開催禁止」などいわゆる廃仏毀釈が行われた。だが大町市の霊松寺が住職の知恵によって廃寺を免れたり、佐久市の新海三社神社(神宮寺)の三重塔が「神社の倉庫」として破壊を免れたりしたように、廃仏毀釈への抵抗は各地に見られる。

そんな廃仏毀釈における「首だけ斬られた」石仏をどう分析しよう。完全に撤去・破壊することもできるはずの石仏をあえて一刀両断にする。筆者には「命令された者に残された信仰心」や「罪悪感」の表れではないかと思えてならない。首を切られた石仏たちの一部はその後首を元に戻されたり、代わりの石を置かれたりと修復を試みられた跡があった。

もちろん石仏の中には撤去され現存しないものも少なくない。修復された石仏だけが残る現在からすべてを読み解こうとするのは、生存者バイアスにつながる危険がある。そこで今回は現存し修復された首斬り地蔵尊や石造物から、どのような斬られ方、またその修復法を分類・考察するに留めたい。

道祖神についての記事はこちら→宝さがしのようなワクワク感!『信濃路の双体道祖神』著者が8,000基の道祖神を45年間撮り続けたワケ

なぜ廃仏毀釈が行われたのか

廃仏毀釈が行われた理由を一言で説明することが難しいが「首なし石仏」の分類をする前には、その背景をある程度押さえておく必要がある。この項では3つのキーワードから廃仏毀釈の背景を解説していく。

  1. 神道国教化を掲げる明治政府の取り組み
  2. 仏教に虐げられてきた人々の反発
  3. 廃仏希釈を加速させた4つの思想

神道国教化を掲げる明治政府の取り組み

明治時代になると、明治政府に平田派の国学者が入り神仏分離と神道国教化を推進した。神道国教化の下準備として出されたのが「神仏分離令」である。主な主張は以下の通り。

  1. 神社と寺院を分離・独立させる
  2. 神社に奉仕していた僧侶に還俗を命じる
  3. 神道の神に仏具を供えることを禁じる
  4. 御神体を仏像にすることを禁じる

また神道国教化の目的は「文明化」であったため、同時に開花政策もとられた。例えば松本藩では廃寺とした寺跡をそのまま学校に転用する都市開発も行われている。大阪府では道路規律の一環として地蔵堂の撤去などが進められた。

仏教に虐げられてきた人々の反発

神仏分離令が出されたのは明治時代に入ってからのことだが、日本では江戸時代から廃仏運動や廃仏論が盛んに行われてきた。

廃仏希釈を加速させた4つの思想

廃仏毀釈を過激化させた儒教や水戸学などいくつかの思想がある。

  1. 儒学
  2. 吉田神道
  3. 国学
  4. 水戸学

今回は復古神道を掲げる平田派国学を一例として紹介する。

江戸時代末期の国学者平田 篤胤(あつたね)らが提唱する復古神道とは、仏教などに影響を受ける以前の神道に立ち返ろうとする思想である。特に篤胤はこれまでの仏教的神道や混淆(こんこう)神道を罵り、排他的な攘夷(じょうい)思想に結びつく、いわゆる平田学派を形成した。

このような復古神道の思想が廃仏毀釈にも大きく影響していた。東京都御蔵島には首のない地蔵像がいくつか存在するが、これについて以下のような文献が残っている。

明治四年 萩原正平神社改に来島(この時の収穫は伊豆三島神社の祭神を事代大神とするに多くの材料を集めたるものの如し、尚正平は廃仏毀釈に専念し御蔵島に於ては石地蔵の首を自ら打ち落す如き行為をなせり)

浅沼悦太郎『改訂増補 三宅島歴史年表』(六人社、一九六三年)

萩原正平は平田派の国学者であり、御蔵島に唯一あった寺院・万蔵寺跡には首のない地蔵像が今もそのままの状態で存ずる。この島では神主が島役人を兼務していたこともあり廃仏毀釈がスムーズに行われ、その後寺が再興されることもなかった。

平田学派は「神道はわが国の大道にして、天(あめ)の下治(しろし)め給う道なれば、儒仏とならべいうまでもなく、掛けまくも可畏(かしこ)けれど、上(かみ)は天皇をはじめ奉り、下(しも)は万民に至るまで、儒仏を棄て、ただひたすら神道を尊(たっと)まし奉らん」とし、「政道は、神国の御風儀にて、神慮によって世を治め給い、神祭をもって第一とする」ことを説いた。現在の岐阜県中津川市苗木に当たる苗木藩は、藩政に平田派国学を積極的に取り入れた結果、徹底した廃仏毀釈が行われた。

廃仏毀釈における石造物破壊について

「廃仏毀釈」と「開花政策」

石仏や仏像の撤去や破壊について、神道思想に基づく「廃仏毀釈」である説と「開花政策」の一環である説とがある。

なぜ「破壊」ではなく「斬首」なのか

上田市路傍の道祖神?石仏
上田市路傍に集められた3基の石造物。砂岩でできており、屋根が設置されている。明和4年(江戸時代)の表記あり。一見道祖神にも見えるが、描かれた3体は僧侶のような姿をしている。

三重塔や本堂など、お寺の建築物は容赦無く破壊されてきた。そんな中破壊ではなく「斬首」された石仏も多く見られる。尾田武雄『とやまの石仏たち』には「頭が欠けているのは、魂が抜かれているためだ」とある。当時の価値観「武士は切腹、罪人は斬首」に照らし合わせると、一見残酷な仕打ちに見える。破壊すれば良いのにわざわざ首を斬って置いておくなんて「晒し首」に近い仕打ちだという考察もあった。

だがきれいに切られた石仏は無闇に破壊されたものより修復しやすく、元に戻されているものも多い。また頭を避けるような形で斬られているものもあった(写真両端)。

石仏の彫られ方

丸彫り

筑北村修那羅山安宮神社石仏・石神

石を丸ごと彫り、形をつくる石仏の彫り方を丸彫りと呼ぶ。仏像と異なり石仏は丸彫りされていないものも多く、丸彫りも簡易的な彫り方をされているものが少なくない。

浮き彫り

筑北村修那羅山安宮神社石仏・石神

石から仏像が飛び出るような彫り方をされているものを「浮き彫り」と呼ぶ。また彫りの深さによって「薄肉彫り」「半肉彫り」「厚肉彫り」と分類される。中には彫りの深さをいくつかあわせて作られているものも。

筑北村修那羅山安宮神社石仏・石神
千曲市霊諍山の石仏群「摩利支天」

線彫り

道祖神アップ

浮き彫りとは逆に石に刻むように彫られたものを「線彫り」と呼ぶ。

磨崖仏

長安寺岩井堂

彫り出さず、自然の岩に彫られたものを磨崖仏(まがいぶつ)と呼ぶ。

諏訪市阿弥陀寺の磨崖仏
諏訪市阿弥陀寺の磨崖仏

自然石

諏訪大社万治の石仏

自然石に首を置いて石仏に見立てているものもある。下諏訪町にある「万治の石仏」は巨石に線彫りと浮き彫りで体をつくり、頭を乗せることで石仏の形を成していた。

首の切られ方

首が持ち去られている

筑北村修那羅山安宮神社石仏・石神
筑北村修那羅山安宮神社石仏・石神

おそらく元々2つの石で作られていた石仏の首を持ち去っているパターン。まるで元々なかったかのような、自然な出立にも見える。上に石を乗せられているものも少なくない。

首のあたりですっぱり切られている

首切り地蔵尊

浮き彫りの石仏は、写真のように首のあたりで斜めに切られていることが多い。きれいに修復できているパターンも多いことから、首は持ち去らずその場に放置していたと考えられる。また首ではなくうまく彫られた仏像をよけて「体裁的に」斬られているものもあった。

逆に首だけある

首切り地蔵尊

やや例外ではあるが、首だけ残されているものもあった。身体は撤去されてしまったのか、生き別れになってしまったのか。ともあれ一応石の上に乗っているだけ石仏に対する愛を感じる。

修復された(?)首切り地蔵

首っぽい石が置かれている

首切り地蔵尊

首の切られた石仏に「首っぽい石」が乗せられているパターンは多い。誰が、いつ置いたのかは不明。

首っぽい石が接着されている

首切り地蔵尊
矢代神社手前に置かれた首切り石仏

首っぽい石を接着している場合もある。廃仏毀釈は数年で幕を閉じるため、大抵は明治時代中期に修復されたものが多いが、接着技術から見てもう少し後に修復されたようだ。

新しい首が接着されている

首切り地蔵尊
東御市田中宿

新しい首にすげ替えられているパターンもある。多くは石の種類が違ったり、明らかに技術に差があったりした。地元住民が自分たちでつくった首を接着したために生まれる技術差であるが、拙くともわざわざ首を戻そうとするところに信仰心を感じる。

首切り地蔵尊
池田町路傍の石仏

例外パターン-道祖神なのに切られている-

首切り地蔵尊
富士見町(蔦木宿)の道祖神

道祖神の扱いについては基本的に「問題なし」としている地域が多い。例えば大阪府は道路規律により路傍の地蔵堂などを撤去したが、道祖神は問題ないと明記している。祭に関しても地蔵尊祭は中止するが、道祖神祭りは問題がないとある。道祖神は仏教由来ではないためだ。

「一町々ニこれ有り候地蔵尊之義、道祖神ヲ祭り度度願出候ハハ御聞届相成ニ 付、心得迄ニ少年寄へ相達候事(『南大組大年寄日記』、『大阪市史料 第三七』五頁下段より)」。

となると富士見町で見られた「首切り道祖神」は異例のパターンであることが分かる。一見仏教の石仏と見分けがつきづらいために、間違えて斬られたのではないかと筆者は推測している。

石仏のみ斬られた修那羅

修那羅山安宮神社石仏・石神
修那羅山安宮神社石仏・石神

ここからは一例として、さまざまな石神仏が置かれている筑北村の修那羅(しょなら)山安宮神社から、斬られた石仏とそうでない石神仏を分析する。境内に808基ある修那羅の石神仏群は神仏混沌としており、首のあるものからないものまでバラエティ豊かである。例えば桃のようなものを持った典型的な石仏の首はきれいに持ち去られている(上写真)。下写真の合掌地蔵像らしき石仏も同じような持ち去られ方をしていた。

筑北村修那羅山安宮神社石仏・石神
筑北村修那羅山安宮神社石仏・石神
筑北村修那羅山安宮神社石仏・石神

そのほか首が無事なパターンは上写真のような「猫神」「鬼神」「稲荷」「銭神」「道祖神(らしきもの)」などがあった。やはり仏教由来であるかが破壊の大きな判断軸になっていたことが分かる。

筑北村修那羅山安宮神社石仏・石神
佐久間象山が寄贈したとされる千手観音像

だが破壊を免れた石仏の中にも明らかに仏教由来であるものたちがいた。例えば上の千手観音像は江戸時代末期に佐久間象山が奉納したといわれているが、破壊された形跡はない。明らかな仏教由来の石仏にも関わらず無事なのは、斬られる前に隠していたからなのだろうか。それともあまりの見事なつくりに斬るのが躊躇われたのだろうか。

ほかにも「摩利支天像」や「大日如来像」など仏教由来と思われる石造物がいくつかそのまま残されていた。例えば大日如来は天照大神と同一視された歴史から廃仏毀釈を免れた例があったが、修那羅においてもその言い逃れが適用されたのか。もしくは僧侶に似た地蔵像だけ破壊されていることから、地蔵像の首を持ち去ることを命令されていたのだろうか。修那羅での廃仏毀釈はどの石仏を斬るか明確に決められてはおらず、斬った者の知識や判断に任せられていた可能性もある。

筑北村修那羅山安宮神社石仏・石神
摩利支天像

「首を斬られた石仏」たちの分類考

首切り地蔵尊

廃仏毀釈にあった石仏たちはどうなったのか。実はこの政策も長くは続かず、10年も経つ頃には復活していた。理由は①何をどのように破壊するかなどのルールが徹底されていなかったこと②手をかけた住民たちに信仰心があったこと③目的は神仏分離であり、石造物の破壊ではなかったこと、などが考えられる。

しかし一度撤去された石仏は戻らず、首を斬られたものたちがその悲惨さの一部を物語っている。

かくして路傍・軒下にあった地蔵さんは賣却、個人祭祀、寺へ奉納などをして、追い追い姿を消されたけれども、路地裏にあったものは漸く取り残されたらしく、明治中頃にはまた昔日のごとき祭祀を見らる様になった。

船木茂兵衛「地蔵祭と地蔵尊の由来」『上方』三二号、一九三四年
公式LINEの友達募集広告

この記事を書いた人

信州さーもん

スキマな観光ライター。長野県内外、国外を旅します。長野県観光WEBメディア「Skima信州(http://skima-shinshu.com )」代表。道祖神宿場街道滝ダムため池棚田神社仏閣好きな平成生まれの魚。浅い知識を浅いままに増やしています。企画・アイディアを出すのが得意。たぶん。