松本市『女鳥羽川(めとばがわ)』を知る〜川名の由来や歴史を地形と文献から考察〜

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女鳥羽川(めとばがわ)は武石峠付近を源流とし、長野県松本市街地を流れる一級河川。田川、奈良井川、犀川へと続き、千曲川と合流する信濃川水系です。

初夏にはホタルやカジカガエルが生息する清らかで豊かな川。

今回の記事は松本都市デザイン学習会の女鳥羽川再発見プロジェクト 2021の内容を参考にしています。お話をしてくださったのは、まつもと文化遺産保存活用協議会会長の後藤 芳孝氏。松本都市デザイン学習会の依頼を受けて文献を調べ、何度も現地に足を運んで今回の講座となりました。

まつもと文化遺産保存活用協議会会長 後藤 芳孝氏
まつもと文化遺産保存活用協議会会長 後藤 芳孝氏

松本都市デザイン学習会とは?
イオンモール出店に伴う同市街地の再開発が課題になった際に、市民サイドからの提案をまとめようと発足した集まり。市民が行政と対等なパートナーとして存在感を発揮できるようにと、講座やイベントを展開。

「女鳥羽川(めとばがわ)」の読み方と由来は?

松本市女鳥羽川
桜橋より望む女鳥羽川

女鳥羽川はめとばがわと読みます。

いつから「女鳥羽川」と呼ばれるようになったかは定かでありません。残っている文献から分かることを見ていきましょう。

水汲川とめとうだ川

江戸時代中期頃の文献によると、女鳥羽川には上流と下流で2つの名前がありました。

水汲川ハ東ノ山ノ山板取木場・たか打・鳥烏帽子岩ノ辺ヨリ落ル沢々ナリ、(中略)古へハ常ニ水アル川ナレトモ近年時トシテ渇水ス、山々木立少クナリタル故ヤト云々
此川松本東川原へ出テめとうだ川と云フナリ、水汲ニ橋アリ、此橋ハ浅間路ナリ、手前橋、同所ニ瓦作リ場小屋アリ、同瓦窯アリ、此所ニテ手前細工人口合羽等

『信府統記』第7より引用

上流の川名は水汲(みずくま)川、浅間温泉の西側には水汲橋があり、その辺りの地名も水汲です。ちなみに日本国語大辞典によると、水汲(みずくみ・みずくめ)には下記3つの意味があるそうです。

①水をくみ取ること。また、その人。
②特に、鉱山などの坑内で湧き水をくみ出す仕事。また、その人夫。
③江戸時代、河川や井戸などから水をくみ取り町へ売り歩いたもの。

下流はめとうだ川と呼ばれています。東川原は現在の岡宮神社あたり、よく見るとここより下流からやや川幅が狭くなっている気がします(理由は後述)。

めとうだ→女堂田?

「めとうだ」の由来もよく分かってはいませんが、漢字に当てはめると「女堂田川」とするのが有力です。堂田はお寺の田んぼを意味しますが、由来は詳らかではありません。近くにお寺や田んぼがあったのでしょうか。

女鳥羽の滝は「女鳥羽川」の由来なのか

松本市の玄向寺(げんこうじ)さんの裏手に女鳥羽の滝と呼ばれる滝があり、これが女鳥羽川の由来だとする説もあります。しかし女鳥羽の滝は直接女鳥羽川に通じておらず、手前で支川の「湯川」に合流します。このことから女鳥羽の滝がそのまま女鳥羽川の由来であるとは考えにくいと、後藤氏はいいます。

地名の「女鳥羽」について、『信府統記』第7には以下のような記述があります。

女鳥羽ハ浅間村ヨリ南ナリ、此山ニ冷水ノ滝アリ、忠職公此地ヲ見立テテ女鳥羽ト名付ラレ、当家ノ廟所トスヘキ志アリシ故

『信府統記』第7より引用

「女鳥羽」は松本城主水野家二代忠職(ただもと)が名付けたとあります。忠職は天保4(1647)年から寛文3(1663)年の間に城主だったことから、女鳥羽の地名もこの時に付けられたものだと考えられます。この頃にはすでに「水汲川」「めとうだ川」の名称はあったものの、いつ女鳥羽川と呼ばれるようになったかについては、更なる調査が必要だとのこと。

女鳥羽川は「武田信玄のつくった松本城の外堀だった」説はウソ?

松本城

女鳥羽川についてよく「松本城の外堀にするため人工的に流路を変えた」という話を聞きます。根拠は①下流の市街地から川幅が狭くなっている②不自然に曲がっている、など。これに対して後藤氏は、女鳥羽川の流路は①縄文時代②古墳時代から平安時代③戦国時代から現在、では変わっており、自然の力で段々と現在のような形になったと述べています。

ただし松本城が現在の場所に築城されたのは、女鳥羽川が外堀のように機能することを考えてのことだったのかもしれませんね(あくまで推測ですが)。

女鳥羽川の流路 変遷

『松本市史』第2巻歴史編Ⅰ
『松本市史』第2巻歴史編Ⅰより引用

3つの図によると、縄文早期から中期にかけては蟻ヶ崎方面に流路がありましたが、古墳時代から平安時代にかけては東寄りに流路が変わっています。戦国期から江戸初期には現在の流路になっていたとのこと。

昔の女鳥羽川は城山公園あたりを流れていましたが、地殻の変動により城山丘陵が盛り上がり、東に傾斜ができたといいます。城山の山頂からは、女鳥羽川の礫が見つかっているそうですよ。女鳥羽川は水汲よりさらに上流(水口神社のあたり)で一度北上し、六助池のあたりでまた南下しています。昔の流路が地殻変動によって東へ押されるように流れの向きが変わっていったことを物語っているのですね。

川幅の狭さは護岸工事の結果

不自然に曲がった流路が地殻変動によるものだとすると、不自然な川幅のせまさはどう説明するのか。女鳥羽川では江戸時代から川除(かわよけ)が盛んに行われていました。川除とは水害防止施設の建設や洪水後の復旧工事などのこと。

城下町付近の女鳥羽川にはたくさんの橋がかけられています。橋をかけやすいように護岸工事をして、川幅を狭めたのではないか、というのが後藤氏の見解です。

女鳥羽川 洪水・氾濫の歴史

松本市縄手通り女鳥羽川
縄手通り付近の女鳥羽川(2021年8月15日)

女鳥羽川はこれまでにたくさんの水害に見舞われてきました。女鳥羽川沿いに住んでいたわたしも、大雨が降るたびに氾濫しないかとヒヤヒヤしていたものです。いつもは川幅のせまい下流も大雨の時には上写真のように川幅を増します。

ちなみに写真に写っている縄手通りは露店が並ぶ前までは松並木が植えられていました。河岸強固や洪水時の対応に使ったのだそうです。2003年頃に改修工事が行われ、今やすっかり松本城下町のシンボルとして人気の観光スポットになっています。

松本なわて通り
現在のなわて通り

江戸時代の洪水 例

昭和8年版『松本市史』上下には女鳥羽川の洪水の記録が細かく記されています。いくつか抜粋しておきます。

京保13(1728)年8月 女鳥羽川は御堀と合水し一面海の如し。白板村人家押流さる。一ツ橋・新小路橋流る。
寛保2(1742)年7月 女鳥羽川水汲下にて切込、安原町、横田町、和泉町、東町、山辺小路を襲ひ、大橋落ち、家流れ、溺死二人あり。
嘉永2(1850)年12月 女鳥羽川水汲にて切込、翌十八日安楽寺裏にて切込、下横田町、餌差町、鍛冶町本瀬となり、大橋・清水橋・新小路橋・袖留橋残らず落つ。
慶応元(1865)年5月 女鳥羽川水汲にて切れ、山辺小路、鍛冶町、東町一円水中となり、縄手の松五六本倒れ、穀倉柵木と共に南御堀へ落込み本瀬となり、堀跡は河原となる。
明治29(1896)年7月 女鳥羽川が水汲乃至裏町裏辺数カ所を決潰し、濁浪澎湃として安原・裏町・泉町・餌差町、つゞいて東町・出井番を襲ひ、片端の堀に押入り、堀と路の一面の海となり其境を弁せず。殊に出井番より上土町本瀬となりて(後に見れば六尺乃至一丈も掘れたる處あり又此處にて一人溺死す)縄手辺にて再び元の女鳥羽川に乱注す。又、片端の堀より堀伝ひに北馬場・西堀・今町を浸襲せり。(薄川も)本町仲町を流れて女鳥羽川に合流し、開智学校の門路及校舎の一部を損傷し、流末都川岸・巾上方面の両岸を掠め、堤防家屋を破壊流没す。市中の諸橋梁悉く流落せるも、千歳橋と緑橋とは石築堅固なりし為め、能く其難に堪へ、南北往来を授けたり。

昭和8年版『松本市史』上下より引用

いくつかの文献を見ると、水汲や岡の宮、清水のあたりでよく決壊していることが分かります。水汲で切れると安原など城下の北東部へ水が出て、岡の宮で切れると東町あたり、清水だと南深志まで水がついたようです。時には松本城下町を「一面海の如し」にするほどの水害を、松本の人々はどのように乗り越えてきたのでしょうか。

女鳥羽川の洪水を防ぐために

女鳥羽川の治水がどのように行われたかは、文献不足で分かっていることは少ないようです。『東筑・松本・塩尻市誌』第2巻歴史下によると、天保9(1724)年の女鳥羽川と薄川について以下のような記録があります。

・人足1170人 女鳥羽川630人 薄川540人
・蛇篭869人 女鳥羽川388人 薄川481人
・新和久3 女鳥羽川2 薄川1
・繕和久1 薄川1
工期 8月20日から9月4日まで12日間

『東筑・松本・塩尻市誌』第2巻歴史下 P506

蛇籠(じゃかご)とは竹材や鉄線で編んだ長い籠に砕石を詰め込んだもの。このように昔から川除(かわよけ)が行われていました。女鳥羽川は昭和34年の水害のあと河川改良工事が進み、現在では川下に降りて水辺で遊べるくらいになりました。

松本市縄手通り女鳥羽川

女鳥羽川から信州新町をつないだ「犀川通船」とは?

松本市女鳥羽川犀川通船

天保3(1832)年から明治35年、篠ノ井線開通までの70年間、松本と信州新町間を結んだ犀川通船。女鳥羽川は大手橋の辺りまで舟が来ていました。現在より川幅も川深もあったようです。白板の船着場までは大きい船が入り、女鳥羽川からは小さな舟で荷物を運び、積み替えをしていました。

ほかにも女鳥羽川は産業と深い関わりがあります。清水(現イオンモールのあたり)には製藍所や製紙所があり、藍の生産から藍染め、絞り木綿や足袋の生産まで行われていました。

現在の女鳥羽川〜美しい川を取り戻そう〜

松本市女鳥羽川

下流のなわて通り沿いはかつてカジカガエルの鳴き声が聞こえたことから「カエルの街」として親しまれています。昔のようにカジカガエルの住める綺麗な川を取り戻そうと、保全・清掃活動も盛んに行われてきました。2019年には念願のカジカガエルが確認され、清水橋から旭橋あたりに生息しています。6月になると綺麗な鳴き声が聞こえてきますよ。

『女鳥羽川再発見プロジェクト 2021〜 —過去・いま・未来の松本を紡ぐー』と題された今回の学習会。2021年3月には千歳橋たもと手すりカウンターも完成し、川沿いの景観を活かしたまちづくりも進んでいます。

松本市女鳥羽川
水辺で乾杯2021

女鳥羽川に興味の出た方は以降のイベントへのご参加もご検討くださいね。詳細はこちら

◆第2回 #女鳥羽川good morningサイクリング
と き 2021年8月22日(日)6:30 参加費300円 ※参加には自転車保険加入が必要
*雨天順延で8月29日(日)
爽やかな早朝、女鳥羽川を自転車で走りましょう!
浅間橋の河原で.松本の湧水で煎れた珈琲やお茶を飲みながらひと息ついて朝を楽しむ
そのまま上流まで行くのも、犀川まで下るのもよし、仕事に行く人もOK!
素敵な1日の始まりの時間を少しだけ一緒に過ごしましょう

◆第3回 水都大阪からのメッセージ
と き 2021年9月6日(月) 夜 講座&河原でプレースメイキング
大阪は元より日本各地のまちづくりを手がける都市デザイン事務所『ハートピートプラン』
代表 泉英明氏をお招きして大阪から松本への熱いメッセージをお聴きします。詳細は後日。
以降のプログラムは仮題で、日程も調整中です。予約フォームで随時更新します。→

◆第4回 女鳥羽川フィールドワーク 「草を見て歩く」 ※9月後半予定
◆女鳥羽川ピクニック、◆女鳥羽川が育む文化芸術、◆女鳥羽川〜水利・防災の視点から・etc

※参加は全部でも、一部でも自由です。(各回予約制)
予約申込みフォーム→→→こちらからお願いします。
※PC環境のない方 090−2550−8331松本都市デザイン学習会までお申し込みください。
通知非設定の方は、電話には出ませんのでご了承ください。
※コロナ禍の中、プログラムについて変更、延期、中止等になる場合もございます。

女鳥羽川の歴史まとめ 次回は歩いてみた編!

松本市女鳥羽川

身近にあるけれど、意外と知らない川のこと。

今回は松本市の女鳥羽川について、由来や歴史などをご紹介しました。次回は実際に歩いてみた様子をお届けできればと思っています。川を歩くことで見えてくる自然や風景、歴史の面影などに出会えるのが楽しみです。

Skima信州では今後も「川を知る」シリーズとして、長野県の川をご紹介していきたいと思っています。取り上げてほしい川がある方は、よければ公式LINEから送ってください!

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この記事を書いた人

信州さーもん

スキマな観光ライター。長野県内外、国外を旅します。長野県観光WEBメディア「Skima信州(http://skima-shinshu.com )」代表。道祖神宿場街道滝ダムため池棚田神社仏閣好きな平成生まれの魚。浅い知識を浅いままに増やしています。企画・アイディアを出すのが得意。たぶん。