今も残る善光寺門前の”旧町名”をさがす旅へ|長野市

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善光寺周辺エリアは「門前町」といわれ、善光寺に由来した地名や旧町名がたくさん残っています。

大門町(だいもんちょう)、西町(にしまち)、東町(ひがしまち)、横町(よこまち)、東之門町(ひがしのもんちょう)、北之門町(きたのもんちょう)(現在の新町・伊勢町)、岩石町(がんせきちょう/がんぜきちょう)、後町(ごちょう)、桜小路(さくらこうじ)(現在の桜枝町)はとりわけ中心地とされ、「善光寺八町」と呼ばれました。

今回はそんな善光寺ゆかりの地名をいくつかピックアップしてご紹介します。

▼善光寺についてはこちらもチェック!

善光寺とは?

善光寺

善光寺の創建は奈良時代以前だといわれており、特定の宗派に属さない無宗派の寺院として知られています。

女人禁制や身分差別の文化の中でも、性別や年齢、身分に関係なく無差別平等な救済を説き続け、現在でも毎年多くの参拝客が訪れる日本有数の名刹です。

山門から善光寺門前

メディア運営という仕事柄、善光寺関連の取材は多く、ガイドツアーに参加したりツアーを主催したりすることもありました。

初めてガイドツアーに参加したとき「善光寺には垣根がないんです」と言われて驚きました。本堂からあたりを見回してみると、確かに塀や垣根らしきものは見当たりません。

「宗派や老若男女の垣根を超えた、開かれたお寺なんです」と続き、静かに感動したことを覚えています。よく見ると観光客で賑わう中、犬の散歩や通勤・通学など、地元の方々の日常に溶け込んだ善光寺の美しい姿がありました。

大門町(だいもんちょう)

藤屋御本陣のランチ|長野市

善光寺のすぐ南に位置する大門町は、門前町の中心をなした町。

大門とは寺院の大きな門を意味し、塩尻市や長和町、飯田市などにも同様の地名がみられます。北国街道「善光寺宿」の本陣があり、現在もレストランや宴会場に利用できる「THE FUJIYA GOHONJIN(藤屋御本陣)」として営業しています。

お食事のあとにモダンクラシックなラウンジでティータイムが楽しめるのも魅力。

権堂(ごんどう)

長野市権堂

善光寺の東南に位置する権堂

権堂の由来は権化(=仮の姿)ともいうように、「仮のお堂」を意味しています。善光寺のような古い神社仏閣には、火災がつきものでした。

『長野県町村誌』によると、1642(寛永19)年の長野村大火災の際、善光寺如来堂や境内の諸堂が焼亡したので、再建された1650(慶安3)年までの間、村にある往生院を仮堂とし、村の名前を「権堂村」と改めたそうです。

後町(ごちょう)

善光寺の南方、大門町の南に続く後町。元々は「後庁(ごちょう)」であり、鎌倉期に後庁の置かれた場所であったことに由来するといわれています。

後庁は国衙(ルビ:こくが)とも呼ばれ、今でいう役所や支所のようなもの。「五町や「郷長」の記述も見られその後「後町」に統一されています。

中御所(なかごしょ)

長野駅の南西部、裾花川の東岸に南北にのびる中御所。

「御所」は天皇や将軍など位の高い人々に関連した施設を表すことがあり、古くは「なかのごしょ」と読みました。

中御所には今でも「御所」という地名が残り、室町初期に建てられた小笠原氏の信濃守護館があったといわれています。地名の由来は、後町にあった国衙に対し、中の御所といったことにちなんだのだそう。

同じく「御所」のつく地名に「問御所」があります。

善光寺の南方に位置し、権堂の南側に隣接する問御所。江戸初期の文献には「豊御所(とよごしょ)」とあり、その後「問御所」に変化しています。

両町には、「1197(建久8)年に源頼朝が善光寺を参詣した際、泊まった場所だから御所と呼ばれた」という伝説も残っています。

桜小路(さくらこうじ)

長野市善光寺門前

善光寺仁王門の北側から東西にのびる桜小路。

平安期からあった地名と推定されていますが、1874(明治7)年に改称され、現在は「桜枝町(さくらえちょう)」となっています。

室町期には善光寺門前の花街だった場所。

江戸時代にまとめられた『善光寺四十九名所』における「七小路」のひとつで、ほかに法然(ルビ:ほうねん)小路、虎小路、桜小路、羅漢(ルビ:らかん)小路、上堀(ルビ:かんぼり)小路、下堀(ルビ:しもぼり)小路があります。

岩石町(がんせきちょう/がんぜきちょう)

善光寺の南東に位置し、伊勢町と新町の境に出る岩石町。

独特な地名の由来は、日本三大仇討ちのひとつ『曾我兄弟の仇討ち』の登場人物である「虎御前(とらごぜん)」にちなんでいます。岩石町には虎御前にまつわるスポットがたくさんあり、そのひとつである「虎御前石(虎ヶ塚)」が町名の由来なのだとか。

武井神社の西傍から続くクネクネと曲がりくねった細い道は「虎小路」と呼ばれ、「善光寺七小路」のひとつ。

虎小路の一角にあるのが「虎御前石」で、案内には「虎ヶ塚」と書かれていました。「善光寺七塚」のひとつに数えられています。

虎ヶ塚は虎御前の墓であるとか曾我祐成の墓として建てたとか、もしくは曽我兄弟や虎御前の遺品が収められているとか諸説あるようです。ほかにも虎御前が供養のために住んでいた「虎石庵」や「善光寺七橋」のひとつ「虎が橋(現在は石看板のみ)」などがあります。

『曾我兄弟の仇討ち』は鎌倉時代初期、源頼朝が行った富士の巻狩りで、兄の曾我祐成(ルビ:そがすけなり)と弟の曾我時致(ルビ:そがときむね)の兄弟が父親の仇だった工藤祐経(ルビ:くどうすけつね)を討った事件。

兄弟は仇討ちに成功するものの、兄は22歳、弟は20歳の若さでこの世を去ってしまいます。虎御前は曾我祐成の妾であり、出家して箱根や熊野などを巡った後に善光寺を参拝し、2人の遺骨を奉納したと伝えられています。

箱清水(はこしみず)

善光寺の北側に広がり、大峰山麓に位置する箱清水。

山麓には湧水が多くあり、そのひとつが箱池(もしくは箱清水)と呼ばれたことに由来しています。『善光寺四十九名所』における「七清水」のひとつ。

現地の案内看板によると、長野市に上水道ができるまで、善光寺周辺からわざわざ箱清水の湧水を汲みに来る人が後を絶たなかったのだそう。

妻科(つましな)

妻科神社

善光寺より南西、妻科神社の鎮座する妻科。

「つま」は隈、「しな」は段丘を意味し、河岸段丘の地形に由来する地名であると考えられます。

「つまなし」と呼ばれていた時代もあり、妻科大明神が独身であったことに由来するという説もあります。おそらく「妻成(ルビ:つまなし)」とも書かれたことによるもの。

妻科神社前の橋は「一人寝の橋」といい、婚礼の際に通行するのがはばかられたことも。ちなみに妻科神社は諏訪大社の県内最古の分社であり、御祭神は建御名方神(ルビ:たけみなかたのかみ)(諏訪大明神)の御妃神(妻)・八坂刀売命(ルビ:やさかとめのかみ)。妻はちゃんといるようです。

おまけ:善光寺平用水を見に行こう!

農業資産カード

善光寺門前を歩いていると、至るところに水が流れていることに気がつきます。

善光寺平用水は、長野市の西側を流れる裾花川から取水する人工の用水。農林水産省の疎水百選にも選定されています。等高線に沿う形で市街地を西から東に横断しており、私たちが身近に感じられる農業資産のひとつです。

疎水の引かれた時期ははっきりと分かっていませんが、鎌倉時代の古文書にも描かれていることから、鎌倉時代以前には現在の市街地を流れる疎水があったといわれています。

農業資産カード

善光寺平用水のすぐ近くには「大口分水工」があります。

分水工とは、文字通り用水を分岐させるための施設。その形はさまざまですが、公平に水を分けるために高度な技術が必要とされます。善光寺平用水はここで「八幡堰(はちまんぜき)」「山王堰(さんのうぜき)」「漆田川(うるしだがわ)」の3つに分水されます。

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この記事を書いた人

信州さーもん

スキマな観光ライター。長野県内外、国外を旅します。長野県観光WEBメディア「Skima信州(http://skima-shinshu.com )」代表。道祖神宿場街道滝ダムため池棚田神社仏閣好きな平成生まれの魚。浅い知識を浅いままに増やしています。企画・アイディアを出すのが得意。たぶん。