善光寺から徒歩5分!“長野県始まりの地”と言われる「西方寺」へ行ってみた|長野市

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こんにちは!おおかみまぐです。

今回はお寺好きはもちろん、日本史好き、長野好きの方がおそらく興味津々になるであろう“長野県始まりの地”こと「西方寺(さいほうじ)」へ取材に行ってきました。

阿弥陀如来を本尊とする西方寺は善光寺と深い関係があったり、善光寺にあるものよりも古い「びんずる尊者像像」や日本初の「チベット大仏」があったりなど、知れば知るほど興味深いお寺!

西方寺の御坊さんに直接教えていただいた情報などをもとに、西方寺の歴史や凄さについて解説していきます。

「西方寺」へのアクセスと基本情報

善光寺から徒歩5分!“長野県始まりの地”と言われる「西方寺」へ行ってみた|長野市
寺社名(正式名称)安養山 極楽院 西方寺
所在地長野市西町1019
公式HPhttp://www.saihouji-nagano.com/
駐車場あり(使用する場合はお声掛けをお願いします)
バリアフリースロープが各所にあります
アクセス<徒歩>
長野駅から徒歩約30分

<自家用車>
長野ICから約10km

<バス>
長野駅から乗車し、善光寺行き「善光寺大門南」で下車
バス停から徒歩3分

歴史は1200年以上!“長野県始まりの地”と言われる「西方寺」

善光寺から徒歩5分!“長野県始まりの地”と言われる「西方寺」へ行ってみた|長野市

西方寺の歴史は長く、1199年(正治元年)に浄土宗の開祖である法然上人が善光寺を訪れた際に開創したと言われています。また、弘法大師こと空海によって807年(大同二年)に建立された宝乗寺が真言宗から浄土宗に変わったお寺であるという話も伝えられており、開山のタイミングや経緯については諸説あるようです。

これ以降お伝えする内容は、1199年(正治元年)に西方寺が開山された説を前提に話を進めさせていただきます。

浄土宗の良仲上人が1246年(寛元四年)に西方寺を訪れて観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)を講義し、現在に至る西方寺の基礎を確立しました。

1504年(永正元年)、誠譽上人を中興として西方寺は権堂(ごんどう)から現在の地へ遷移します。

1615年(元和元年)3月、1700年(元禄十三年)7月に善光寺本堂が火災にあった際、善光寺如来を西方寺まで避難させて仮本堂となったこともありました。

1871年(明治四年)6月、県庁が中野(現在の中野市)から長野(現在の長野市)へ移るにあたり、なんと西方寺が長野県庁仮庁舎となりました。これが、西方寺が“長野県始まりの地”と言われる由縁です。

本堂には善光寺よりも古い“びんずる尊者像”など珍品がたくさん!

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山門を抜けて境内に入ると、まず左手に「西蔵砂曼荼羅堂」があります。そこから参道を少し歩くと、チベット仏教・ゲルク派において最高位の僧侶であるダライ・ラマ法王14世が開眼された「阿弥陀佛像」「紫雲石(しうんせき)」「徳本上人、祐天上人、正道上人などの石碑」があり、それを横目に真っ直ぐ進んで行くと本堂があります。

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本堂内部の様子
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天蓋

本堂には歴史的に貴重で価値のあるものがたくさんあります!

一際目につくのは、本堂の天井にある立派な「天蓋(てんがい)」です。

1707年(宝永四年)に善光寺で起きた火災から避難させた善光寺如来を西方寺から善光寺へ戻す際に使用された天蓋がそのまま保存されています。約320年前のものが非常に綺麗な状態で残っていて、新品の状態であればどれだけ綺麗だったのだろうか…とワクワクさせてくれる逸品です。

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びんずる尊者像

本堂の左手には、あの善光寺のものよりも古いとされる「びんずる尊者像」があります。

なぜ善光寺より古いものだと言えるのか?それは善光寺の本堂が火災にあって西方寺が仮本堂となった時に、このびんずる尊者像が作られたと分かっているからです。

ちなみに、現在善光寺に鎮座しているびんずる尊者像は火災にあってしまった善光寺の本堂が復旧した際に新しく作られたもので、仮本堂のびんずる尊者像はそのまま西方寺に置かれて現在に至ります。

善光寺では多くの参拝者がびんずる尊者像に触れるためお顔の部分などがツルツルになっていますが、西方寺のびんずる尊者像は本堂に入らないと分からない“スキマ”な場所に鎮座されているため、善光寺のびんずる尊者像と比べて顔立ちなどがはっきりとした元の姿を拝むことができます。

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六道輪廻図

びんずる尊者像の反対側には、比較的新しい「六道輪廻図(ろくどうりんねず)」があります。

西方寺境内にあるチベット大仏を手掛けた仏師が作った物で、非常に緻密に作られています。迫力のある表情を浮かべながら歯で円を噛み、赤い手足で円を掴み、虎の手足にしっぽを生やした「ヤマ王(閻魔)」が支配する苦しみの多い生死の世界を描いているそうです。

円の中心には「無知」「憎しみ」「貪欲」の三毒があり、輪廻する原因と言われています。その周りには、「愚かさ」「怒り」「欲望」である煩悩を表現し、善い行いで上に向かう人や、悪い行いで下に向かう人を描いています。またその周りには6つの世界があります。時計で表すとわかりやすいでしょうか。

時計の5時~7時の位置にあるのは「地獄界」と言われ、現世で罪を犯した人が生まれ変わる世界。6つの世界の中で最も苦しみの多い世界です。

時計の3時〜5時の位置にあるのは「餓鬼界」と言われ、欲深く、ケチな人や、楽しみや幸せを自分だけで楽しもうとする人が生まれ変わる世界。食べ物や飲み物を目の前にしても、口に運ぼうとした瞬間に炎となり消えてしまいます。

時計の7時~9時の位置にあるのは「畜生界」と言われ、幸せな人を妬んだり、他人の不幸を喜ぶ人が生まれ変わる世界。動物や昆虫の世界であり、まさに弱肉強食の世界です。

時計の1時~3時の位置にあるのは「修羅界」と言われ、怒りに満ちていたり、自惚れや人を疑う心を強く持った人が生まれ変わる世界。修羅界では好戦的な鬼としても知られる阿修羅が鬼神で、この世界では争いが絶えません。怒りに身を任せ、欲望を抑えられず、争い続けるのです。

時計の11時〜1時の位置にあるのは「天界」と言われ、最も楽しみが多い世界。しかし楽しみの中にも悩みや迷いがあり、哀しみも寿命もあります。天界と聞くと苦しみから解放される「極楽浄土」を連想してしまいますが、異なる世界です。

時計の9時〜11時の位置にあるのは「人間界」と言われ、まさに今僕たちが生きている世界。6つの世界の中で唯一仏法が聞ける可能性があるため、仏の教えを学べば六道輪廻の世界から解脱できるとされている、辛く苦しいことがある一方で、幸せや楽しみもある世界です。

そしてその周り、一番外側の円には、十二縁起のそれぞれを示すもので、12時~1時の間から時計回りに、「無明」「行」「誠」「名色」「六処」「触」「受」「愛」「取」「有」「生」「老死」を象徴的な絵で表現しています。生命のあるものが輪廻世界で生死を繰り返す。6つの世界どの世界であろうと寿命があり、いつか必ず死が訪れます。その後、閻魔様の裁きにより生まれ変わる世界が決まります。そのため地獄に生まれたとしても永遠に続くわけではなく、天に生まれたからといって幸せが永遠に続くわけでもないのです。

長々と説明をしてしまいましたが、西方寺の御坊さんからお話を伺っていて、六道輪廻図にはこんなにも深い意味が込められていたのかと圧倒されました。ちなみに、これでも記事用に端折って解説をしたつもりです!!←

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本堂の天井絵

西方寺の本堂に入ってすぐに目に入るものが、実はもうひとつあります。それは「天井絵」です。

この天井絵は日本最大級の流派で室町時代から明治初期まで続いた狩野派絵師の作品で、特定のコンセプトがあるわけではなく絵師が自由に描いたものだそうです。

天井絵の数はなんと380枚!かっこいい怪物や動物、綺麗な草月など、一枚一枚目を凝らして見ているとあっという間に時間が経ってしまいます…

日本初!チベット大仏が拝める“二尊極楽堂”

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二尊極楽堂の外観

本堂の魅力についてたくさん語ってしまいましたが、西方寺にはまだまだ見どころがあります!

続いて、本堂の横にある「二尊極楽堂」と書かれた建物について紹介します。

浄土宗の所依の経典「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の3つのうち「観無量寿経」には、1720年に描かれた「観無量寿経曼荼羅」と呼ばれる絵があります。その絵をもとにして建立されたのがこの二尊極楽堂です。

二尊極楽堂は元々白い壁に木の柱という感じでシンプルな色をしていましたが、現在は鮮やかな色が塗られてより美しくなりました。

そんな二尊極楽堂には、大変興味深い“大仏様”がいらっしゃいます。

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説法印阿弥陀仏(チベット大仏)

中に入ると、正面には釈迦牟尼の悟りが説法によって現れた姿である「説法印阿弥陀仏(チベット大仏)」が鎮座されています。

僕は様々な仏様を「美しいな…」と思い見てきましたが、この説法印阿弥陀仏は「かっこいいな…」と思うほどの迫力がありました。

この説法印阿弥陀仏は粘土でできていて、塑像と言われる方式で造られました。大きさは約2m40cm、重さは2トンとされています。この重さゆえに火急の際に持ち出せないことから、平安時代になると軽い木彫りの仏像が流行し、塑像の技術や文化は徐々に失われていきました。現存する塑像は、法隆寺の金剛力士像や東大寺の日光菩薩・月光菩薩など大変希少です。

こうして日本では失われてしまった古代の文化を、チベットからやってきた大仏師が奈良時代以来1300年の時を経て蘇らせました。道具から全て手作りで心と魂を込めて仕上げられたこの説法印阿弥陀仏は、設計図などなく造られたそうです。

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階段(写真左)を上ると説法印阿弥陀仏の裏側(写真右)を見ることができる

説法印阿弥陀仏の体内には魂の依代・命の柱と呼ばれる「赤い回向柱」があり、背骨の代わりにもなっています。

説法印阿弥陀仏の体内にある赤い回向柱は日本で唯一西方寺にだけ存在し、その回向柱を再現したものが7年に一度だけ、善光寺の御開帳のタイミングで西方寺へ訪れると見ることができます。その回向柱に触れると説法印阿弥陀仏の命をいただき元気に長生きできるとも言われています。

そして説法印阿弥陀仏の心臓の辺りには、ダライ・ラマ法王から届けられた「釈迦牟尼仏像」が2010年(平成22年)に納められました。

二尊極楽堂の壁には「観音菩薩」「勢至菩薩」「弥勒菩薩」「文殊菩薩」「普賢菩薩」「除蓋障菩薩」「地蔵菩薩」「虚空蔵菩薩」の八菩薩が描かれています。チベット特有の葉や砕いた顔料に膠(にかわ)を混ぜて絵具を作り、メンリ派の伝統技法と絵師の才能によって描かれました。大きさは縦1.5m横1mで、チベットでも稀な大きさです。

この壁画は一枚一枚とても細かくできており、見れば見るほど世界観に吸い込まれていきます。

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二尊極楽堂の天井絵

二尊極楽堂の天井絵も圧巻です。説法印阿弥陀仏の頭上の法輪は「八葉」「八菩薩」「八正道」を表し、周りには仏教由来の縁起物が並んでいます。

この説法印阿弥陀仏を作り上げ壁画と天井絵を描いたのはケサン・ロドェさんです。

ケサン・ロドェさんはブータンやインドをはじめとした仏教の中心地に留まることなく、アメリカやヨーロッパなど世界中のプロジェクトに招かれ活躍されていて、ダライ・ラマ法王お抱えの仏師でもあります。ちなみに彼の作品はダライ・ラマ法王の居室にも飾られているそうです。

西方寺ではそんな彼の作品に囲まれながら時を過ごすことができるのです。

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二尊極楽堂の周りには「瞑想回廊」があります。

多くの方が知っていると思われますが、善光寺にはお戒壇巡りというものがあります。お戒壇巡りは真っ暗な回廊を巡りながら「極楽の錠前」に触れることで錠前の真上におられる絶対秘仏と極楽往生の約束ができると言われる道場のことで、回廊の暗闇は死後の世界を象徴し、49日の魂の旅の途中で仏に出会い浄土の光を見つける「生まれ変わりの疑似体験」の意味合いがあるそうです。

通常、僧侶がこれを修行の一環として経験しますが、一般の方でも二尊極楽堂の周りをゆっくりと歩くことによって、僧侶の修行と同じ瞑想の心境を得ることができると言われています。

御坊さんがいらっしゃる時には瞑想回廊を案内していただくことができますので、ぜひ体験してみて下さい!

美しい砂曼荼羅とチベット語の御朱印がある“西蔵砂曼荼羅堂”

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砂曼荼羅

二尊極楽堂から山門の方へ戻ると「西蔵砂曼荼羅堂」という名の休憩所のような建物があります。

その中には「砂曼荼羅」というマンダラが展示されています。砂曼荼羅は仏教の伝統的な芸術形式のマンダラで、なんと砂でできているのです!

この砂曼荼羅はチベットの僧侶が訪れ何日もかけて作り、最後にお経をあげて、中心に阿弥陀様を降臨させます。その後仏教の基本的教義の1つ“諸行無常”を表すため、本来であれば砂曼荼羅は自然へと返すそうですが、西方寺では2016年に作られた砂曼荼羅を今でも見ることができます。ちなみに2009年に作られた砂曼荼羅は無に返された砂をお守りとして販売されており、一般の方でも購入することができます。

実際に自分の目でじっくりと鑑賞。「これ、本当に砂なの?」と思ってしまうほど繊細にできていました。

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より近づいて見てみると、確かに砂でできていることが分かります。

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こちらが西方寺の御朱印です!なんとチベット語で書かれており、元祖外国語御朱印とも呼ばれています。

写真の御朱印は複製されたものですが、もとの字は実際にチベットの僧侶によって書かれたものだそうです。

僕は色んなお寺で御朱印をいただいていますが、外国語の御朱印には外国語の御朱印ならではの雰囲気や良さがあると感じました!

「西方寺」まとめ

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非常に華やかで立派な「本堂」

西方寺、いかがだったでしょうか?

善光寺から歩いて5分ほどの場所に、チベットとの関係が深く、善光寺よりも古いびんずる尊者像が鎮座するお寺があったなんて驚きを隠せず、僕の頭の中は「まじか?!」でいっぱいでした。

今回は紹介しませんでしたが、西方寺には「小林一茶の句碑」があったり、善光寺七名所の七池の1つ「無方池(なきかたいけ)」があったり、あの川中島の戦いとも少し関係があったりと、知れば知るほど不思議でハマってしまいます。

ぜひ長野市を観光する際には善光寺だけでなく、意外な魅力がたっぷり詰まった西方寺にも訪れてみてはいかがでしょうか?

▼神社仏閣のスキマ記事はこちら

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この記事を書いた人

おおかみまぐ

生まれ育った長野県とゲームと食べることなどが好きなそこらに歩いている学生です。
長野県の食や観光地について自分も勉強しつつ現地に行ってみたりいろいろして、長野県の良さを共有できたらと思っています!