須坂(すざか)地名の由来は墨坂神社?奈良県との意外なご縁とは

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長野県の北部、長野市のお隣にある須坂(すざか)という地名について考えます。

須坂の歴史は古く、室町時代には「墨坂(すみさか)」と呼ばれていました。須坂市に現存する延喜式内社の墨坂神社が由来だといわれています。

江戸期になると「須坂村」になっており、「すみさか」から「すざか」へと訛っていったものだと考えられています。

スキーマ

須坂の由来が「墨坂」から来ているのは分かったけど、墨坂ってどういう意味なの?

「墨坂」という地名に立ち返ってみると、奈良県や善光寺との意外なつながりが見えて来ました。

そこで今回は須坂の由来である「墨坂」の意味や由来を調べた範囲でご紹介いたします。

須坂の由来になった「墨坂神社」とは?

芝宮墨坂神社|須坂市
芝宮墨坂神社
八幡墨坂神社|須坂市
八幡墨坂神社

墨坂神社は、平安時代に書かれた新抄格勅符抄(しんしょうきゃくちょくふしょう)によると、781(天応元)年に朝廷からの寄進を請けて建てられました。

また芝宮墨坂神社の社伝には、現在奈良県宇陀市にある墨坂神社から647(白鳳2)年に勧請されたとあります。

須坂の由来となったとされる「墨坂神社」は現在2カ所にあります。

「芝宮墨坂神社」と「八幡墨坂神社」と呼び分けられ、いずれも延喜式内社論社となっています。どちらが延喜式に書かれていた神社なのか争っているということですね。

どちらの墨坂神社も墨坂神をお祀りしています。

ではこの墨坂神とはどんな神様なのでしょうか?

奈良県宇陀市の「墨坂神社」との関係

宇陀市の墨坂神社公式HPによると、御由緒は以下のようになっています。

墨坂神社は猛威を振るった大和のはやり病に心を痛めた第10代・崇神天皇が、この疫病を鎮めるため墨坂の神と逢坂の神を祀り創建されました。この記述は古事記や日本書紀に記されています。墨坂神社は日本最古の健康の神を祀るとも言われる由緒深い神社で、氏子の皆様はもとより皆様の祟敬をあつめてまいりました。

墨坂神社公式HPより引用

墨坂神社は奈良県宇陀市榛原の墨坂という場所にあり、1449(文安6)年に現在の場所へ移動してきたようです。

また「墨坂神」というのは一柱を指すものではなく、総称であるということ。

神武天皇御東征のみぎり墨坂の地ですでに祭祀されておりました神々、

天御中主神(アメノミナカヌシノカミ) 天地宇宙創造の神
高皇産霊神(タカムスビノカミ) 男女産霊の神、生成力を持たれる神
神皇産霊神(カンムスビノカミ) 生成力を我々人間の形とした御祖神(みおや)
伊邪那岐神(イザナギノカミ) 国生みと神生みの男神
伊邪那美神(イザナミノカミ)天津神の命により創造活動の殆どを司り、冥界を司る女神
大物主神(オオモノヌシノカミ)五穀豊穣厄除け国の守護神である

の六神を総称して墨坂大神(スミサカノオオカミ・病気平癒 健康の神)と申し上げます。

墨坂神社公式HPより引用

▼宇陀市の墨坂神社

「墨坂」の由来は賊軍による「山焼き」の故事から

墨坂神が総称であり、健康にご利益のある神様だということがわかりました。

しかしどうやら「墨坂神社」や「墨坂神」の由来は奈良県宇陀市榛原(はいばら)という場所にある地名だということも見えてきます。

つまり「墨坂」という地名の由来はまた別にありそうなのです。

下の地図の通り、いせ本街道沿いに「墨坂伝承地」なるものがあります。

日本書紀によると、神武天皇が東征する際、賊軍がそれを阻止しようと「いこり炭(山焼きの意味)」を用いた場所なのだそう。神武天皇は高倉山からその様子を見ており、菟田野川の水をもっていこり炭を消火し、不意を突いて勝利しました。

墨坂の由来はこの故事によるものだそうです。

墨坂神社の神紋は善光寺と同じ「立葵」

善光寺御朱印

さいごにひとつ、長野県と墨坂神社の意外なご縁をご紹介します。

奈良県の墨坂神社の神紋は、長野県長野市の善光寺と同じく「右離れ立葵」なのだそう。

深い関係があって善光寺平にある須坂の地に地に勧請されてきたのでしょうか?詳細は不明ですが、なんだか親しみを感じますね。

須坂の由来を探っていたら、墨坂の故事にまでたどり着き、善光寺とのご縁につながっていたというお話でした!

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この記事を書いた人

信州さーもん

スキマな観光ライター。長野県内外、国外を旅します。長野県観光WEBメディア「Skima信州(http://skima-shinshu.com )」代表。道祖神宿場街道滝ダムため池棚田神社仏閣好きな平成生まれの魚。浅い知識を浅いままに増やしています。企画・アイディアを出すのが得意。たぶん。