真田信之といえば、父・昌幸、弟・信繁とともに戦国時代に活躍した武将ですが、父・弟と比べると少し影が薄いかな・・・という印象です。
恥ずかしながら、私は大河ドラマ『真田丸』を見るまでは真田信之のことをほとんど知りませんでした。『真田丸』では大泉洋さんが真田信之役を演じていらっしゃいましたね。
あらためて、真田信之がどんな人物なのかご紹介したいと思います。
真田信之ってどんな人?その生涯は?
真田信之(さなだのぶゆき)は、戦国〜江戸時代にかけて活躍した武将・大名で、上田藩主、松代藩主を務めた人物。
1566(永禄9)年に真田昌幸の長男として誕生。
家康の家臣・本多忠勝の娘と結婚したことから、関ヶ原の戦いでは東軍につくことを決意。父・弟は西につき、真田家は敵同士に。
勝利した東軍の信之は、上田藩主を経て松代藩主になります。93歳でその生涯を閉じるまで、松代藩そして江戸幕府を支えました。
真田信之の年表
西暦(和暦)年 | 年齢(数え年) | 概要 |
1566(永禄9) | 0(1) | 真田昌幸の長男として誕生。 |
1585(天正13) | 19(20) | 第一次上田合戦で父・弟とともに戦い、徳川軍を追い払う。 |
1589(天正17) | 23(24) | 真田家が徳川家の与力大名に。小松姫(家康家臣本多忠勝の娘)と結婚。 |
1590(天正18) | 24(25) | 父・弟とともに小田原城攻めに参加。 沼田城主となる。 |
1600(慶長5) | 34(35) | 7月、俗に言う「犬伏の別れ」で信之は東軍につくことを決める。 9月、第二次上田合戦で秀忠より命を受け砥石城を攻める。弟・信繁軍が去り、戦わずして砥石城に存城。関ヶ原では東軍が勝利し、信之には上田領が与えられる。 |
1601(慶長6) | 35(36) | 初代上田藩主になる。(上田城は破却されたため沼田領を拠点とする) |
1611(慶長16) | 45(46) | 父・昌幸が九度山にて死去。 |
1614(慶長19) | 48(49) | 病気のため、長男・信吉、次男・信政を大坂冬の陣に送る。 |
1615(元和元) | 49(50) | 病気のため、長男・信吉、次男・信政を大坂夏の陣に送る。 弟・信繁死去。 |
1616(元和2) | 50(51) | 上田城入城。 沼田城には長男・信吉が入城。 |
1620(元和6) | 54(55) | 妻・小松姫死去。 |
1622(元和8) | 56(57) | 松代藩に移封。松代藩十万石、沼田藩三万石計十三万石の大名となる。 |
1634(寛永11) | 68(69) | 長男・信吉死去。 |
1656(明暦2) | 90(91) | 次男・信政に松代藩を譲り隠居。 |
1658(万治元) | 92(93) | 次男・信政死去。信政の子・幸道が松代藩主になるも、幼いため信之が後見人として復帰するが、同年信之死去。 |
戦国屈指の知将・真田昌幸の長男、日本一の兵・真田信繁の兄
1566(永禄9)年、戦国屈指の知将・真田昌幸の長男として誕生した真田信之(信幸と書くこともあるが信之で統一)。幼名は不明ですが、元服し源三郎信之と名乗ります。そして、時期は不明ですが、伯父・真田幸綱の娘・清音院殿を妻に迎えます。弟には、後に日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)と呼ばれる・真田信繁がいます。
1585(天正13)年、 父・昌幸、弟・信繁とともに第一次上田合戦に参戦。数では圧倒的不利ながら、昌幸の知略が冴え渡り、徳川に勝利します。この戦いで信之は、「砥石城にいて父の合図を待って徳川を攻撃した」「上田城にいて先陣として出陣した」などいくつかの説が伝えられています。
信之、そして真田家にとっての分岐点 小松姫との結婚
1589(天正13)年、真田家は徳川家の与力大名になりました。このころ信之は、徳川家康の家臣である本多忠勝の娘・小松姫と結婚します。『真田丸』では吉田羊さんが演じられていました。さまざまな説があるようですが、この後小松姫が正室、清音院殿が側室という扱いになり、信之を支えていきます。
1590(天正14)年、父・昌幸、弟・信繁とともに豊臣秀吉の小田原城攻めに参戦し、秀吉から沼田城を安堵され、信之は沼田城主となります。
父・弟と敵になった信之
1600(慶長5)年7月、犬伏(現在の栃木県佐野市)で、真田家が生き残るため、父子3人が東軍・西軍どちらにつくか話し合いました。これが世に言う「犬伏の別れ」です。ここで信之は東軍に、父・昌幸と弟・信繁は西軍につくことになりました。 理由としては諸説ありますが、有名な話としては、信幸の妻・小松姫は徳川家家臣・本多忠勝の娘であり、また弟・信繁の妻は石田三成と繋がりのある大谷吉継の娘だったから、というものがあります。こうして父子3人は敵同士になったのです。
9月、信之は徳川秀忠に真田の城の1つ、砥石城を攻めるよう命じられます。そこには弟・信繁がいました。父・昌幸の命で信繁軍が撤退し、戦わずして砥石城は開け渡されます。秀忠軍は上田城に向かい、真田軍との第二次上田合戦が起こりますが、信之はそのまま砥石城にいることになったため、真田同士で血を流さずに済んだのです。
そして、関ヶ原の戦いで東軍が勝利します。父・昌幸、弟・信繁は九度山へ流されました。一方信之は、家康から上田領を安堵され、沼田領と上田領を治めることとなります。
上田藩・松代藩の藩主として奮闘
1601(慶長6)年、初代上田藩主となった信之。真田の故郷・上田は戦乱で荒廃していました。浅間山の噴火や洪水などに見舞われながらも、城下町の整備や用水堰の開削、年貢の減免など、建て直しに奔走します。そんな中、1611(慶長16)年、父・昌幸が九度山で亡くなります。
そして、大坂の陣が起きます。すでに40代後半になっていた信之は病気がちになっており、冬の陣でも夏の陣でも自らは参戦せずに、長男・信吉と次男・信政を送っています。夏の陣では、弟・信繁が武功をあげながら命を落としました。さらに1620(元和6)年には、妻・小松姫に先立たれてしまいます。
1622(元和8)年、信之は上田藩から松代藩に移封となりました。これで、松代藩十万石、沼田藩三万石、合わせて十三万石の大名となりました。1634(寛永11)年、今度は沼田を治めていた長男・信吉が亡くなってしまいます。
1656(明暦2)年、信之は次男・信政に松代藩を譲り隠居します。すでに信之は90歳になっていました。これ以前にも隠居の申し出を幕府に出していたようですが、将軍・家綱が幼少のため支えてほしいと言われて隠居が遅れた、という話もあり、幕府にとって信之が重要な人物であったことが分かります。
戦国から泰平の世まで生きた92年の生涯
ようやく隠居できた信之でしたが、1658(万治元)年、松代藩を引き継いだ次男・信政が死去。信政の子・幸道(信之にとっては孫)が引き継ぐことになりましたが、まだ幼かったため、後見人として信之が復帰しました。しかし、同年信之も亡くなります。92歳でした。
信之はこんな辞世の句を残しています。
「何事も 移ればかわる世の中を 夢なりけりと 思いざりけり」
信之の墓は松代町の長國寺(真田家菩提寺)と隠居していたという同町大鋒寺にあります。
まとめ
今回記事を書くにあたって広辞苑を開いてみました。父・昌幸、弟・信繁は掲載されていましたが、なんと信之は掲載されていませんでした。
そんなこともあり、私は少し地味なイメージを持ちましたが、生涯を追ってみて、いろいろなプレッシャーに耐えながらも着実に真田家を守っていく生き様が見えました。妻や息子に先立たれる不幸、そして信之自身が度々病気になりながらも藩政に取り組んだことを知り、しっかりと生き切った人生だったんじゃないかと思います。そんな信之が力を尽くしたからこそ、真田氏による松代藩政は約250年も続いたのでしょう。
今度松代に行った際には、信之の人生に思いを馳せながら歴史を感じてみてはいかがでしょうか。
参考文献
・NAGANO検定実行委員会著・発行 『NAGANO検定公式テキストブック改訂版』 第2版(2018)
・橋場日月著 株式会社学習研究社発行 『知れば知るほど面白い・人物歴史 丸ごとガイド 真田幸村 戦国を生きた知将三代』(2004)
・宮坂勝彦原作 NPO法人夢空間松代のまちと心を育てる会発行 『松代藩十万石真田家十代の礎を築いた漢 信濃の獅子「講談で読む真田信之」』(2016)
・黒田基樹著 株式会社KADOKAWA発行 『真田信之 真田家を継いだ男の半生』(2016)
・平山優著 株式会社PHP研究所発行 『真田信之 父の知略に勝った決断力』(2016)
・信州松代観光協会 「大鋒寺 真田信之の墓」
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