江戸時代中期に松本藩で多田加助/嘉助(ただかすけ)らが起こした、いわゆる「貞享騒動(じょうきょうそうどう)」について分かりやすくご紹介します。
年貢の取り立てが酷く、引き上げがたびたび行われたことで農民たちの不満が高まり、日本中で「一揆」が起こった時代。信濃国の一揆発生件数は、日本でもトップクラスだったそうです。
中でも松本藩の年貢は厳しく、凶作も重なり人々は困窮の一途をたどりました。そんな時代に立ち上がったのが多田加助一行。
現在の安曇野市三郷温のあたりで、多田加助らゆかりのスポットをめぐることもできます。
多田加助(ただかすけ)とは?
多田加助は1639(嘉永16)年に、信濃国安曇郡長尾組中萱村の庄屋(名主・肝煎)の家に生まれました。
凶作と飢餓で苦しむ農民のため、年貢の軽減を求めました。訴状は受け入れられず、松本藩に陳情したことで、庄屋の身分を取り上げられます。貞享騒動が起こったのは、その後のことでした。
貞享騒動(じょうきょうそうどう)の経緯と詳細
特に厳しかった松本藩の取り立て
松本藩では1686(貞享3)年、当時35歳であった水野忠直が第3代藩主を務めていました。領内では毎年続く凶作で年貢の取り立てに苦労しています。松本藩は周囲の藩よりも取立てが厳しく、減免などもありませんでした。
当時の松本藩では籾(もみ)を納めていました。例えば高遠藩は1俵当たり2斗5升であるのに対し、松本藩では1俵当たり3斗。その後3斗5升まで引き上げを行ったのです。
民衆の我慢が限界に達した時に立ち上がったのが、義民「多田加助」一行でした。
同年10月14日、1俵あたり2斗5升への減免を求める「五箇条の訴状」を提出するため、2000人で松本の奉行所に強訴(ごうそ)へ向かいます。道中で藩内の各組が加わり、城下には1万人とも言われる百姓が押し寄せて大変な騒ぎになりました。
その時は藩主の水野忠直が参勤交代で不在だったため、家老たちが10月18日に百姓側の意見を飲むとし、翌19日には回答書を提出。これで事態は収まったかに見えました。
反故にされた約束と処刑
江戸にいる松本藩主・水野忠直に早馬を出した家老たちは、許可を得た上で約束を反故にし、騒動の主犯格である多田加助らを捕縛しにかかります。
翌月11月22日には多田加助とその家族、同志ら総勢28名がそれぞれ死刑となりました。その中には参謀格であった小穴善兵衛(おあなぜんべえ)の、16歳になる娘・しゅんも含まれています。女子が処刑されるケースは当時でも珍しかったものの、しゅんは馬に乗って駆け巡り、同志の連絡手段として活躍したために男として処刑されたとのこと。
加助を含む8名は磔(はりつけ)、残り20名は獄門(打ち首)に処せられます。
結果3斗まで減免するが・・伝説は残る
多田加助が処刑されたのは、現在の松本市立丸の内中学校のあたりにあった「勢高刑場」。少し高台にあり、松本城にも程近いこの場所。1950年に丸の内中学校の建設現場で18名分の人骨が発見され、そのうち17名が騒動の死刑者であることがその後の調べて分かっています。
処刑されるときに加助が松本城をひと睨みすると、松本城がグラリと傾いたという伝説が残っています。実際には老朽化が原因らしいのですが、明治期の写真でも松本城が傾いていることがはっきり分かります。
この騒動の後、加助たちの要求通り2斗5升とはいかないものの、元通り3斗に引き下げられました。
40年後に水野氏は改易!加助らは義民となる
加助騒動から40年後の1725年、6代藩主の水野忠恒(ただつね)が江戸城にて8代将軍徳川吉宗に自身の婚儀を報告したときのこと。いきなり理由もなく、長府藩(山口県)藩主の5男・毛利師就(もうりもろなり)を斬りつけるという刃傷沙汰を起こします。
結果、水野氏は改易(身分・官職・領地の剥奪)され、松本藩には戸田氏が入封することになりました。戸田氏は騒動に加担した義民を顕彰し、その名誉を回復します。
あまりに不可解なこの事件はのちに「多田加助の無念が通じた」とか「松の廊下で加助の霊を見た」とか噂を呼ぶようになります。
明治時代に物語として「加助騒動」が有名に
貞享騒動と多田加助の名前を世に知らしめたのは、明治期に活躍した穂高(長野県安曇野市)出身の自由民権家・松沢求策(きゅうさく)です。1878(明治11)年に民権家加助をテーマに新聞寄稿を始め、翌年には「民権鑑加助の面影」として舞台化、各地で公演しています。
1916年には半井桃水(なからいとうすい)の新聞小説「義民加助」が連載され、全国に知られるようになったとのこと。
多田嘉助ゆかりの史跡をめぐってみよう
安曇野市の中萱駅近くには、今でも加助関係の史跡が多く残っています。仁義に生きて身を殺した多田加助を知りたい方は、ぜひ現地にも足を運んでみてください。
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