葛飾北斎とはどんな人?描くことに生涯を捧げた90年の人生を解説!

葛飾北斎の浮世絵『富嶽三十六景』

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葛飾北斎(かつしかほくさい)は、言わずと知れた日本を代表する浮世絵師。

彼の代表作である『富嶽三十六景』は、2020年に新しくなった現行パスポートのデザインに採用されたことも話題になりました。

また、アメリカの有名な雑誌『ライフ』の「この1000年で最も重要な功績を残した世界の100人」に日本人で唯一選出されるなど、“世界で知られる日本人” でもあります。

そんな偉大な葛飾北斎と信州の繋がりは意外と知られていないかもしれません。それでは、葛飾北斎の人生を見てみましょう。

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葛飾北斎とはどんな人?その生涯は?

葛飾北斎は1760(宝暦10)年に、江戸本所割下水(現在の墨田区亀沢)あたりで生まれました。

幼い頃から写生を始め、10代の頃に木版彫刻を学んだのち、20歳ごろに浮世絵師・勝川春朗としてデビューします。

その後雅号を変えながら美人画や読本、絵手本などを描き続け、55歳のときに『北斎漫画』を発表し、大人気に。

さらに72歳ごろに『富嶽三十六景』を、75歳ごろに『富嶽百景』を発表します。

その後も創作への情熱は尽きず、80歳代には信州・小布施を何度か訪れ、祭屋台や寺院の天井絵を手がけるなど活躍。90歳で亡くなるまで、絵を描くことに人生をかけました。

葛飾北斎の年表

西暦(和暦)年年齢(数え年)概要
1760(宝暦10)1江戸本所割下水(現墨田区亀沢)付近生まれ
幼名は時太郎(のちに鉄蔵)
1773(安永2)14木版彫刻を学び始める
1775(安永4)16洒落本『楽女格子』の一部文字彫りをしたとされる
1778(安永7)19浮世絵師・勝川春章に入門
1779(安永8)20勝川春朗として役者絵を描きデビュー
洒落本や噺本、浮絵、美人画、武者絵など、約15年間で、浮世絵版画200点以上、黄表紙などの挿絵本50種類以上を手がける
1792(寛政4)33師の春章が亡くなる
1794(寛政6)35俵屋宗理より「宗理」を襲名(他に北斎辰政、画狂人北斎なども名乗る)
この頃から肉筆画や狂歌絵本の挿絵に力を入れる
美人画『柳下傘持美人』『二美人』などを描く
1801(享和元)〜1804(文化元)42〜45『潮干狩図』『酔余美人図』などを描く
1804(文化元)45江戸音羽護国寺で120畳大の達磨半身像を描く
滝沢馬琴の読本『小説比翼文』の挿絵なども担当
1807(文化4)48この頃に雅号を「葛飾北斎」とする
滝沢馬琴との共作『椿説弓張月』を発表
1810(文化7)51雅号を「戴斗」とする
この頃から絵手本に力を入れ始める
1814(文化11)55名古屋・永楽屋より『北斎漫画』を発表し大人気に
1817(文化14)58本願寺名古屋別院にて120畳の料紙に大達磨を描く
1818(文化15/文政元)59『東海道名所一覧』を発表
1820(文政3)61雅号を為一とする
1831(天保2)72西村屋与八より『富嶽三十六景』を発表(天保4,5年ごろにかけて)し、大流行となる
1832(天保3)73『琉球八景』を発表
1833(天保4)74『諸国瀧廻り』を発表
1834(天保5)75雅号を画狂老人卍とする
『富嶽百景』を発表
1842(天保13)83小布施の高井鴻山を訪ね、画業にいそしむ
1844(天保15/弘化元)〜1845(弘化2)85〜86再び小布施へ
このころ、東町祭屋台天井絵「龍」「鳳凰」上町祭屋台「男浪」「女浪」を制作したとされる
1848(弘化5/嘉永元)89小布施の岩松院の天井絵を制作したとされる
1849(嘉永2)90絶筆とされる『富士越龍』を描く
4月18日死去
浅草の誓教寺に葬られる

北斎の代表作は『富嶽三十六景』

葛飾北斎の浮世絵『富嶽三十六景』

葛飾北斎の作品で最も有名と言えるのが、『富嶽三十六景』。

北斎が72歳ごろに発表した作品です。

赤富士を描いた『凱風快晴』や大きな波が特徴の『神奈川沖浪裏』などが特に知られていますが、信州から描いた作品も1つだけあります。その作品は『信州諏訪湖』。

葛飾北斎の浮世絵『富嶽三十六景』

諏訪湖越しに見える富士山を描いている作品です。

ちなみに、三十六景というタイトルですが、作品は46枚。これは、『富嶽三十六景』が大人気になり、のちに追加で10枚書くことになったためです。

『富嶽三十六景』は雅号が「為一」だったころの作品で、「為一」時代には他にも『富嶽百景』や『諸国瀧廻り』など有名な作品があります。

本の種類で北斎が力を入れていたものが「読本」と「絵手本」です。

「読本」は、文章と挿絵が入った本のことで、1804(文化元)年ごろからのおよそ10年間で200近い読本の挿絵を描いたといわれており、その多くは滝沢馬琴との共作。

有名な作品に『椿説弓張月』があります。

「絵手本」は、手本となるような絵が描かれた本のこと。代表作は『北斎漫画』で、日本国内のみならずヨーロッパでも人気を博し、その後のジャポニスムブームにつながるような作品です。その画風は、エドガー・ドガやフィンセント・ファン・ゴッホなどさまざまな人物に影響を与えたといわれています。

北斎と信州・小布施

北斎と信州の関係性といえば、小布施。

小布施北斎館

驚きなのが、80歳を超えてから数回にわたって訪れていること。車や電車などの交通機関のない時代に、わざわざ江戸から小布施に来ているんです。

小布施に来た大きな理由としては、パトロンがいたこと。その名は高井鴻山(1806~1883)。北信濃の豪農商です。2人の出会いについて正確なことは分かっていませんが、鴻山が江戸へ遊学しているときに出会ったとする説があります。

1842(天保13)年、83歳で初めて小布施を訪れます。鴻山は、碧漪軒(へきいけん)という名前のアトリエを用意し、北斎はそこで画業に専念しました。

新天地・小布施で85〜86歳のときに制作したと言われているのが、東町祭屋台の天井絵「龍図」「鳳凰図」と上町祭屋台の天井絵「男浪図」「女浪図」です。これらは現在小布施町内の「北斎館」に展示されています。

そして、88歳のときに制作したと言われているのが、岩松院本堂の天井絵「八方睨み鳳凰図」。私も拝見したことがありますが、その名の通りぐるっと一周する間ずっとこちらを睨んでいて、怖いくらいの迫力があります。一度はご覧になっていただきたいです。

北斎の家族

北斎は2度結婚しています。

1度目の結婚については、妻の名前や結婚の時期などがよくわかっていません。

2度目に結婚した相手は「こと」という女性で、1男1女をもうけたといいます。その娘が葛飾応為。一度結婚したものの出戻りとなり、父・北斎の画業を手伝いました。

また、応為自身も浮世絵師としても作品を残しています。その生涯はNHKでドラマ化されました。

https://www.nhk.jp/p/ts/GZ1L66Z3JJ/

北斎の逸話「引越しマニア」に「改名マニア」⁈

北斎といえばさまざまな逸話が残っていることでも有名です。

その代表的なものが引っ越しの回数。一説には93回と言われています。「散らかると引っ越していた」「1日3度引っ越したことがある」などの話も伝えられています。また、酒もタバコもせず甘いもの好きだったという話や、50歳ごろから川柳を嗜むようになった、などの逸話が残っています。

また、雅号をたくさん変えていることでも有名です。

年表で紹介している「春朗」「宗理」「北斎辰政」「画狂人北斎」「葛飾北斎」「戴斗」「為一」「画狂老人卍」はごく一部。改名の回数は、30回以上と言われています。改名がこれだけ多い理由は諸説ありますが、一説には自分の門人に名を譲ってお金を得るため、とも言われているようです。

ちなみに、一般的に言われている「葛飾北斎」という雅号ですが、この名を名乗っていたのは、1805(文化2)年ごろからのわずか5年ほどだったとされています。

葛飾北斎まとめ

葛飾北斎、その正体は描くが全ての人でした。

1つの画風や画法を究めると、新しい画風や画法を習得しようと実践しながら学び究めていく、それを繰り返しました。

100歳以上まで生きることを見据えて、高齢になってからも努力を怠らず、創作意欲が衰えなかったと言われています。

そんなふうに貪欲に絵に向き合い、描くことに生涯を捧げた北斎だからこそ、世界的に知られる浮世絵師になれたのではないかと思いました。

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▼参考文献

外務省HP 「パスポート(旅券)2020年旅券
文化遺産オンライン 「冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏
小布施町HP 「高井家のルーツ
小布施のまちづくり-過去・現在・未来へ- 「小布施町の歩み
岩松院HP
一般社団法人北斎館編著 株式会社平凡社発行 『北斎 視覚のマジック 小布施・北斎館名品集』(2019)
朝日新聞出版編著 内藤正人監修 朝日新聞出版発行 『北斎への招待』(2017)
永田生慈監修 株式会社東京発行 『アート・ビギナーズ・コレクション』(2019)
神山典士著 株式会社幻冬舎発行 『知られざる北斎』(2018)

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この記事を書いた人

宮川周平

1994年生まれ。長野県塩尻市出身。ライター。たまに詩人。sharing love = 愛をわかちあうことを大切に生きている人。目標は長野県全77市町村制覇。クイズと相撲と昭和歌謡が好き。