長野県歌『信濃の国』は戦時中に生まれた・・浅井洌が込めた子どもたちへの想い

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信濃の国は十州に、境連ぬる国にして。

勇壮なメロディと共に信州の風土や情景を映し出す長野県歌『信濃の国』。長野県が2015年に実施したアンケートによると、長野県出身・在住者の約8割が歌えると回答するほど愛されています。

そんなバツグンの認知度を誇る長野県歌『信濃の国』ですが、作詞者の浅井 洌(あさい れつ)先生まで詳しく知っている方は多くないかもしれません。

そこで今回は「浅井洌を知らずんば『信濃の国』を得ず」と題して浅井洌先生とはどんな人なのか分かりやすくご紹介していきたいと思います。

浅井洌とは?長野県歌『信濃の国』の作詞者

浅井洌は嘉永2(1849)年に松本藩士・大岩昌言(まさのり)の三男として松本城下に生まれました。12歳の時に同じく松本藩士の浅井持満の養子となります。幼い頃から国学や儒学、剣術や槍術を学び、文武両道の修行に励んだといいます。

明治2(1869)年、21歳の時に松本藩崇教(そうきょう)館に入校し、大日本史や詩経、史記などを学びました。明治6(1873)年、25歳で開智学校に勤務するも、10月に病気のため辞しています。明治19(1886)年、38歳で長野県尋常師範学校(信州大学教育学部の前身)に出仕し、長野市に移ります。

明治32(1899)年、51歳で長野県小学校用唱歌として『信濃国』を発表。明治13(1938)年、90歳で死去。『信濃の国』が長野県歌に制定されたのは昭和43(1968)年のことでした。

浅井洌のプロフィール

名前浅井 洌(あさい れつ)
生誕1849年11月24日(嘉永2年10月10日)
死没1938年2月27日(90歳没)

『信濃の国』は戦下で子どもたちのために生まれた

『信濃の国』が生まれたのは日清戦争後、日本では戦争を助長するような軍歌が流行し、学校でも盛んに歌われていました。

そんな時だからこそ「子どもたちに郷土の文化や歴史を学び、歌ってほしい」と小学唱歌授業細目取調委員会が設立され、唱歌教授内容の再編に乗り出しました。『信濃の国』はこの動きの中で生まれたのです。

浅井洌は作詞を任され、最初の作曲は師範学校音楽教論の依田弁之助が担当しました。明治32(1899)『信濃教育会雑誌』に小学唱歌として『信濃の国』が発表されます。しかしこれはあまり定着せず、依田の後任としてやってきた北村 季晴が第二の作曲を手がけます。明治33(1900)年には師範学校運動会で女子部の遊戯用としてダンスとともにお披露目されました。

スキーマちゃん

今でもダンスを踊っている学校もあるよね!当時のダンスを受け継いでいるのかな?

『信濃の国』には”長野県の小学生が学びたい内容”が満載!

先述したとおり、『信濃の国』は子どもたちが信州の風土や歴史を学ぶためにつくられました。歌詞には当時の地理歴史の教科書で学ぶ要素が散りばめられています。

明治20年頃の教科書には名勝旧跡を紹介する意識は低かったようですが、明治27年以降の教科書では名勝旧跡の項目が独立してみられるようになりました。『信濃の国』では4番の歌詞で登場しますね。

ほかにも東西南北、武人文人などが偏らないように気が配られており、のちに長野県歌となるに相応しい内容だといえます。

スキーマちゃん

ちなみに「善光寺」や「松本城」「真田幸村」などの著名な名勝や人物が登場しないのは、教わらなくても“みんなが知っているから”だといわれているよ!

▼詳しくはこちらの記事で解説しています。

『信濃の国』が長野県歌になった理由

小学唱歌『信濃の国』が誕生した翌年の明治33(1900)年、長野県尋常師範学校の運動会でダンスと共に披露されました。これが卒業生たちが赴任先の学校で教えるなどして徐々に広まり、県民なら誰でも歌える歌になっていきました。

昭和38(1963)年、長年続いた「分県論」が湧き上がった際、議会傍聴席から『信濃の国』の合唱が起きたことで南北分県を免れたそうです。また昭和43(1968)年に白馬村で開催された国体スキー大会の開会式で『信濃の国』が流れたところ、観客席にいた約3,000もの人たちが大合唱したことも話題となりました。

こうしたことがきっかけで県歌制定への機運が高まり、昭和43年5月20日に県歌へ制定されました。

スキーマちゃん

県歌になる前から、県民みんなに愛される歌だったんだね!

長野県歌だけじゃない!浅井洌の作詞した校歌や唱歌たち

信濃の国と浅井洌
今回参考にした書籍「信濃の国と浅井洌」

『信濃の国』が広まるにつれ、作詞依頼が増加したとみられる浅井洌。更科小学校、大下条小学校など、現在70以上の校歌を作詞したことが確認されています。実際にその土地を訪れ、地理や民情、風俗や社寺の由来などを聞いたり、校訓を加味した上で作詞していました。

明治42年には松本市歌も作詞していたようですが、その詳細は明らかになっていません。

▼参照資料

『信濃の国と浅井洌』松本まるごと博物館

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この記事を書いた人

信州さーもん

スキマな観光ライター。長野県内外、国外を旅します。長野県観光WEBメディア「Skima信州(http://skima-shinshu.com )」代表。道祖神宿場街道滝ダムため池棚田神社仏閣好きな平成生まれの魚。浅い知識を浅いままに増やしています。企画・アイディアを出すのが得意。たぶん。