戸隠にいた異端のお坊さん「乗因(じょういん)」とは?

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長野県長野市の戸隠エリアにある戸隠(とがくし)神社は、北信地方における有名な観光地として名前が知れ渡っています。

しかし江戸時代以前の戸隠神社は顕光寺(けんこうじ)というお寺であり、天台宗のお寺として延暦寺(えんりゃくじ/天台宗の本山)や東叡山寛永寺(かんえいじ/江戸や関東での本山)と同じでした。お寺であったということは、お坊さんもいたということです。

今回は、江戸時代の顕光寺時代の戸隠山にいた、乗因(じょういん)という特異なお坊さんについて紹介します。

▼戸隠神社五社めぐり

戸隠の「乗因」とは?生い立ちをご紹介

まず、彼の生い立ちについて紹介します。

乗因は江戸時代中期の人です。天和2年(1682年)に信濃国で生まれ、宝永年間(1704年~1711年)頃に、比叡山で、天海の神道と仏教を掛け合わせた教え「山王一実神道(さんのういちじつしんとう)」を受け継ぐ宣存(せんぞん)から、天海の教えを受け継ぎました。

※天海(てんかい)…徳川家康の江戸幕府開設に助力して、「黒衣の宰相(こくいのさいしょう)」とも呼ばれました。(あくまで俗説ですが、明智光秀のことであるとするものもあります)。

享保年間(1716~1736年)頃には江戸の寛永寺に住み、摩多羅神(またらしん/仏教の神様)を祀っていたそうです。享保12年(1727年)には戸隠山観修院の別当(寺務を総裁する人です)に着任し、天海の教えや戸隠山の修験道(しゅげんどう)、『先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんきたいせいきょう)』に由来する神道の教え(霊宗神道(れいそうしんとう)などを融合させ、「修験一実霊宗神道(しゅげんいちじつれいそうしんとう)」を提唱しました。

※先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんきたいせいきょう)…江戸時代に作られた偽書で、神官や学者、僧侶に広く読まれたが、偽書であるために幕府によって禁書とされました。

※修験道(しゅげんどう)…一種の山岳信仰。乗因が取り入れたのは九州の英彦山で行われた修験道。

しかしこの乗因の動きや思想は戸隠山の衆徒の反発を受け、寛永寺とも対立した結果、元文4年(1739年)に乗因は八丈島(あるいは三宅島)に流罪となってしまいました。

対立の原因は摩多羅神に対する対応の相違

乗因が寛永寺と対立した理由のひとつに、摩多羅神に対する対応の違いがありました。摩多羅神は、出自が不明ながらも、日本由来の神であることや、障礙神、祟り神、芸能神などの様々な神格があることが知られています。

乗因は摩多羅神を推していたのですが、これは天海や従来の江戸幕府下の仏教が、東照権現(とうしょうごんげん、徳川家康のこと)・山王権現(比叡山の麓にある日吉大社の祭神のこと)・摩多羅神をまとめて「東照三所権現」として、徳川家の守護神としていたことに影響を受けています。

そして乗因は宣存から受け継いだ書物に、独自に摩多羅神についての記述を加筆するほどに、摩多羅神を推していました。

しかし元禄年間(1688年~1704年)に、天台宗の中で2つの派閥が発生し、主流の安楽律派(あんらくりつは)の霊空光謙(れいくうこうけん)という人が、もう一方の派閥を批判するために、摩多羅神を本尊とする玄旨帰命壇(げんしきみょうだん)の教えを否定して、結果的に摩多羅神が大々的に祀られることは無くなり、乗因も「異端派」となってしまいました。

ちなみに摩多羅神に関する本には、「この時点で摩多羅神は弾圧されて歴史の闇の中に消えた」とするものもありますが、この後にも「天台三門跡(門跡は皇族や貴族の子が代々住職となるお寺です)」の1つである京都の妙法院(みょうほういん)で祀られていたことが判明しているので、注意が必要です。

神道と仏教の思想を融合した乗因の魅力

乗因の面白いところは、上にも記しましたが、様々な神道・仏教の思想を融合させているところです。

乗因が自身の思想に取り入れた思想は、天海の山王一実神道、英彦山派の修験道、『先代旧事本紀大成経』に由来する霊宗神道以外にも、純粋な神道や仏教(天台宗・密教)、神道と儒教を掛け合わせた吉田神道、さらには中国の道教までがあったと言われます。

そして、戸隠山を開いた伝説上の人物である「学門行者」について、乗因は「『学門行者』は思兼命(おもいかねのみこと)や天手力男命(あめのたじからおのみこと)の子孫であり、釈迦の分身や観音の化身であり、老子(道教の伝説上の始祖)の再来である役行者(えんのぎょうじゃ/修験道の伝説上の始祖)に師事した」と説いています。

※思兼命(おもいかねのみこと)…日本神話に登場する頭のいい神様で、戸隠神社に祀られている天上春命・天下春命(あめのうわはる・したはるのみこと)の父親です。また阿智村に阿智神社を祀る阿智祝部(あちのはふりべ)の祖であるとされます。

※天手力男命(あめのたじからおのみこと)…戸隠神社の御祭神で、天岩戸に引きこもった天照大神を引っ張り出した神様であり、彼が開いた天岩戸が戸隠山になったという伝説があります。また思兼命の子で阿智祝部の祖であるともされます。

色々な思想がこんがらがっていてカオスなのですが、ちゃんと彼の書物を読めばわかる…かもしれません。

乗因は自身を「天神七代(国之常立神(くにのとこたちのかみ)から伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)に至るまでの7代11神のこと)や、信濃国に天下った思兼命やその子の天手力男命・天上春命、さらには九頭竜権現の流れを引く学門行者の苗裔である『阿智祝部一実道士(あちはふりべいちじつどうし)』である」と称しました。祝部は神道の概念、一実は一実神道の概念、道士は道教の概念です。

異端の思想から流罪に

またもうひとつ乗因の面白いと思うところがあるので、そちらも紹介します。

乗因は宣存から継承した「天海の教え」について、寛永寺のお坊さんから尋ねられた際には「天海が徳川家康に伝授した治国の法である」と述べています。つまり乗因が唱えていた思想の中には、天海の教えという天海や徳川家康が認めていた「治国の法(体制擁護の思想)」が入っていたのにも関わらず、「反体制派」として流罪となってしまったのです。

乗因は天海の教えをさらに発展させ、思想として充実させようとしたのではあるのでしょうが、行き過ぎた擁護が、逆に目をつけられて異端とされてしまったというわけです。

戸隠にある乗因の史跡

最後に、戸隠にある乗因に関する史跡を紹介します。

1つめは旧顕光寺観修院の跡地(現在の久山館です)にある、「守護不入之碑(しゅごふにゅうのひ)」です。戸隠山は徳川家康によって独自の支配を認められていたので、乗因は「守護(藩主のことです)の権限は戸隠山に及ばないよ」という旨の碑文を建てました。ちなみに、かつては表門の大杉の下にあったそうです。

2つめは、戸隠豊岡の尾上にある、「乗因別当里坊屋敷跡」と、そこにある「一実道士の碑」と「『慈検後』と刻まれた石」です。その名の通り、乗因を含めた戸隠山の別当の屋敷があった場所です。「慈検後」とは、乗因の教えである慈悲、倹約、後自の頭文字です。

古来からの伝統的な思想や、江戸時代に入って新たに成立した思想など、様々な思想を融合させた癖の強すぎる戸隠山別当・乗因について紹介しました。

読んでいただきありがとうございました。

参考文献

曽根原理『徳川時代の異端的宗教 戸隠山別当乗因の挑戦と挫折』
長野市文化財データーベースデジタル図鑑「戸隠尾上の慈倹後の石・一実道士の碑」(http://bunkazai-nagano.jp/modules/dbsearch/page1246.html
戸隠神社公式ホームページ「守護不入の碑」(https://www.togakushi-jinja.jp/seiryuden/bottom/togakushiwoaruku/memo/syugohunyuunohi.html

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この記事を書いた人

みかりん