松本市立考古博物館は、長野県松本市の中山地区にある考古博物館です。1931(昭和6)年に中山尋常高等小学校に創設された中山考古館を前身としています。中山地区には中山古墳群をはじめとする古代の遺跡が数多く発掘されているため、松本市域の考古学の拠点としての役割も担っています。
松本市民でも「知らなかった」「行ったことがない」という声をよく聞く松本市立考古博物館と中山地区。実はスゴイ場所なんです!ということで今回はそんな松本市立考古博物館の展示物や、周辺の遺跡についてご紹介します。
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松本市立考古博物館のアクセスと概要
所在地:長野県松本市中山3738-1
開館時間:9:00〜17:00(入館は16:30)
休館日:3〜11月→月曜日(月曜祝日の場合翌日)、12〜2月→平日(土日祝日のみ開館)、年末年始
観覧料:大人200円、中学生以下無料
松本平の古代史 概略
松本平に人の住んだ跡が見られるようになったのは、13,000〜14,000年前の後期旧石器時代からです。縄文時代に入った約12,000年前には人口も増え、土器も開発されました。約4,500年前の縄文時代中期には巨大なムラができ、八ヶ岳山麓を中心とした文化圏の中心地域のひとつとして栄えていきます。
その後は寒冷化が始まり、約2,000年前の弥生時代中期末まで大きなムラはできませんでした。再び暖かくなり始めた弥生時代後期からはムラも増え始め、3世紀末(約1,700年前)には東日本最古級の弘法山古墳が築造されました。
平安時代には埴原(はいばら)の牧がおかれ、東山道も通る交通の要衝として「信濃国府」が置かれました。
縄文時代の土器(約12,000年前から2,300年前)
約1万2,000年前から2,300年前までの1万年ほどを縄文時代と呼びます。松本平では縄文時代中期から人口も増え始め、東山山麓を中心にたくさんの遺跡が残っています。
埋甕(うめがめ)とは家の出入り口に埋められた土器。胎盤を入れて子どもの無事な成長を祈ったものといわれています。
エリ穴遺跡は松本市の内田地区にある縄文時代後期から晩期(約4,500〜2,300年前)のムラの跡です。当時大流行していた土製耳飾りが2,534点も残っていることでも知られています。
弥生時代の針塚遺跡・百瀬遺跡(約2,300年前から1,700年前)
2,300〜1,700年前までの約600年間を弥生時代と呼びます。寒冷化により人口が少なかったものの、中期の終わり頃から温暖化によりだんだんと大きなムラができ始めました。
針塚遺跡は松本市里山辺地区に残る、弥生時代前期の遺跡です。当時のお墓が5箇所発見されています。調査により、松本平の弥生文化は東海地方からもたらされたことが分かりました。
百瀬遺跡は松本市寿地区に残る、弥生時代中期から後期の遺跡です。百瀬遺跡で見つかった土器は百瀬式土器と呼ばれ、長野県の弥生土器研究の基準となっています。
古墳時代の松本平(約1,700年前から1,300年前)
古墳時代は3世紀末(約1,700年前)から7世紀末(約1,400年前)までの400年間。はじめは豪族クラスだけが古墳をつくっていましたが、後期には各地の有力者クラスでも古墳をつくるようになりました。松本市内には160箇所以上の古墳がありますが、その8割が後期につくられたものです。
弘法山(こうぼうやま)古墳は3世紀末(約1,700年前)頃につくられた、東日本最古級の古墳です。全長約66mあり、埋葬者は不明ですが東海地方西部にゆかりのある豪族ではないかと推測されています。
針塚古墳は松本市里山辺地区にある5世紀後半(約1,500年前)頃につくられた積石塚古墳です。高さ約2mあり、石を積み上げてつくられているのが特徴です。
▼古墳時代の土偶
松本平の奈良・平安時代(1,300年〜800年前)
古代の松本は「筑摩郡(つかまぐん」と呼ばれ、国府(現在の県庁)が松本に移されてからは信濃国の政治の中心として栄えました。松本と呼ばれるまでは「府中」「信府」と呼ばれていたそうです。
平安時代には都(平安京)と東北を結ぶ東山道(とうさんどう)が通っており、当時から交通の要衝であったことがうかがえます。
松本市立考古博物館まとめ
松本平の歴史が時代ごとに分かりやすく整理されている松本市立考古博物館。こじんまりとしているものの、見応えのある展示内容でした。興味のある方は、近くの遺跡にもあわせて立ち寄ってみてはいかがでしょうか?
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