さあ!始まりました、おざわっぷる(@naganozawapple)の『プチッと歴史ウォーキング』。今回は集合場所も解散場所も長野駅。のんびり歩けば90分、サクサク行けば1時間ほどで戻って来れるコースをご案内します。
「あー、善光寺の門前町か!」
いいえ、その反対側にですね、実はお城があったんですよ。
では、実際に皆様を歩きながらご案内するつもりで、この先のスポットやまちの歴史をご紹介していきます。まずは「長野駅東口公園」を目指しましょう。善光寺口とは違って、反対側の「東口」は道路がちょっとわかりにくいのですが、東口公園まで出ればわかりやすくなります。
よろしければ、スマホ片手にこの記事をガイド代わりに、お散歩のおつまみにしていただければ嬉しい限りです。ただし、くれぐれも、歩きスマホによる事故やトラブルにはご用心ください。
帽子かぶってますか?飲み物は持ってますか?それでは参りましょう!
まずは長野駅東口公園まで
はい、やって来ましたおなじみ長野駅の新幹線改札。出た瞬間、もしかしたら条件反射的に右へ行ってしまうかもしれませんが…
今日はこちら!左へ曲がります。
こちらが長野駅の東口。デッキが目の前に広がっています。階段、足元ご注意を。まっすぐ進んで道路の向こう側へ行きます。
左を向くと見える、ちょうど写真の真ん中にある角を目指します。
その角にあるのが「茶寮 志も多゛」さん。ここを道なりに右に曲がると、
歩道橋の階段が見えます。安心してください、すぐに道は開けます。
はい、見えましたでしょうか、道路の向かい側にabn長野朝日放送のビル。一気にパァッと視界が開けましたね。ここまで来たら今日の旅はもう安心です。
そのまま道なりに進むと、交差点の奥では広い道路がまーっすぐ延びています。こちらが東。そして交差点を渡ると、
角に広がるのが「長野駅東口公園」です。
この場所が、長野市の「栗田町」という地域のほぼ北西の端っこです。つまり、東に行っても南に行っても栗田町にお邪魔させてもらえるのですが、おざわっぷるのおすすめは、南です。
ここから少し南に下って西側から栗田町の中へ入り、南東の端へ抜けたら「東(あずま)通り」を北上して北西の端へ出て、「南部小学校北」の交差点を左折して西へ進んでここに戻って来る、そんなコースでご案内します。
今は住宅地の栗田町は戦後まで農村地帯だった
それでは、暑いかもですが南へ進みます!西側には高層マンションがありますが、南や東には日差しを遮るものがあまりないのでご用心下さい。でもこの先、マンションもちらほらあります。そう、栗田町は駅チカの住宅地なのです。
ですが、宅地化が進んだのは昭和40年以降で、戦後はまだ農村地帯だったそうです。
江戸時代は「水内(みのち)郡栗田村」と言い、時期によって幕府領だったことも、越後高田城主の領地だったこともありますが、中期から明治維新までの約100年間は幕府領と戸隠神社領の分け郷となっていました。実は戸隠神社ともかなり縁の深い地域なのですが、それはまた後ほど。
さて、明治の時代は進み、明治22年(1889)、市町村制の施行によって栗田村は周りの村と合併し「芹田(せりた)村」となります。その村役場が栗田の地に置かれるのですが、後ほどその跡地も巡ります。
「竹内こども医院」さんの看板が見えたら、次の信号を左に曲がります。もう少し南へ歩きます。
そして大正12年(1923)、芹田村は長野市に編入されますが、旧栗田村の地域は「大字栗田」として今でも住所に残っています。
ところで、この「栗田村」の指す範囲は、実は今歩いている道路の西側の地域も含んでいます。旧栗田村の範囲は現在「栗田地区」と呼ばれ、その中に「栗田町」と「北中町」の2つの町があり、おおよそこの南北に貫く道路で二分されています。
ややこしいですが、厳密に言うと「栗田地区」の「栗田町」(栗田区とも)の内部へ、これから入っていきます。「栗田西」の交差点を左に曲がりましょう。信号のタイミングが良ければ渡ってしまって構いません。
左折したらどんどんまっすぐ進んでください。
さて、向かって右側奥の方向に、かつて「栗田城」と呼ばれた館や土塁や堀があったといわれています。はっきりした遺跡はその一部しかわかっていないのですが、それらが崩され、あるいは埋め立てられ、農村地帯になり、さらにそれらが今、住宅地や道路になっています。
しかし広い道路ですね。交通量が多くないのに車道も歩道も広く、自転車ゾーンまであります。「元農地だった新住宅地あるある」とでも言いましょうか。つまり広い用地が確保出来たということです。長野駅から徒歩15分足らずでこういう道路に出会うとは、意外に思えますね。
さて、信号のある交差点に出ました。左右の道は「栗田新道」といって、栗田の中心部から鉄道のガードをくぐって善光寺方面へ通じる、昭和2年(1927)に出来た新しい道です。
向かって右に進みます。
信号機に「栗田日吉神社北」とありますが、ここは栗田城の城跡の北側でもあるはずです。近くに大きな神社もあるのでしょうか?行ってみましょう!
栗田城抜きではもう善光寺や戸隠神社を語れない
さて、長野市でお城と言えば「松代城」が真っ先に浮かびますが、あまり知られていない栗田城…いよいよ近づいてきました。
信号からすぐの丁字路を右に曲がります。が、その前に、丁字路の突き当たり、お気づきでしょうか?
道祖神と木は絵になる
木の下に道祖神があります。道中の無事をお祈りしましょう。
道祖神と高ーい木、青空によく映えます。
公園の裏は森に囲まれた土塁
さあ!ここを真っ直ぐ行けば栗田城址です!
見えますでしょうか、奥の方にちょっと森のようになっているところ。何もないわけありませんよね。
道は少し狭くなりますが、間違いありません、まっすぐ進んでください。
公園があります。森になっていますね。近づいてみましょう。
日吉公園というようです。木陰が涼しそうですね。
そう言えば先ほど、信号に「日吉神社」の文字がありましたね。関係ありそうです。
そして奥を見てください。石垣のようなものが。
ちょっと通り抜けられないようなので、脇道を進みながら観察します。
やはり石垣です。
そして立派な石垣の上に建物があるではありませんか!屋敷でしょうか?
正面へ行くしかありません。進みます。
栗田城址らしき石垣から離れる形になりますが、ここしか道がないので進みます。
住民の方々の迷惑にならないように、しかし最短距離を目指して進みます。
細い道を抜けたら突き当りを左折します。
さっきの公園も、今通って来た道も、そしてこの道も、かつては栗田城の堀だった場所です。戦後はまだ堀だったのです。いざ、進みましょう!
土塁と神社と高札場・濃厚な3点盛り
正面に出ました。木で出来た鳥居がありますね。神社です。
あれ?
神社ですね。しかも水内郡の総社のようです。
いやいや、栗田城址です。お城ですってば。
後ろに何やら案内板がありますね。行ってみましょう。
立派な高札!
振り返ったら何とも不思議な光景が。石垣の上にあるのは神社の社殿ではありませんか。そして手前に広がる謎の広場。まるで境内の中でも「より聖域」と「やや俗」と分け隔てられているように思えてしまいます。「高さ」によって、視覚的にも体感的にも。
文字数の多い案内板がいくつもありますが、おざわっぷるなりにかいつまんで、なるべくサラッと行きたいと思います。
栗田城は平安末期~江戸初期の栗田氏の居館だった
大きな高札の脇に、高札についての説明があります。
「親孝行」「殺人禁止」「キリスト教禁止」など、言わば「人としての大原則」を幕府が定め、人の集まる場所に掲げたのが高札。その場所が高札場。栗田村の高札場は別のところにあり、それを移設したのがここの大きな高札とのことです。
元々あった場所にも、後ほどご案内します。
もう一度見てみましょう。立派ですね。栗田村の高札は代々立派なものが作られたそうです。
すぐそばに、こんな地図もあります。
栗田城は二重の堀をめぐらせた、内郭と外郭からなる平城で、東西709m、南北1,090mという長野市で最大規模の居館跡といわれています。その構造からか「堀之内城」とも呼ばれていました。
平安時代末期の1190年頃に栗田氏によって築かれたようですが、戦国の世を経て栗田氏がこの地を離れたため、400年と少し経った江戸時代初期に取り壊されました。
その内郭の土塁が、例の石垣の高台として残されているのです。
ちなみに、地図の上の方に「栗田新道」とありますね。先ほど少し通った、善光寺方面へ続く道です。ちょっと覚えておいてください。
想定図の反対側には栗田氏についての解説がありました。これがまた濃いのです。後ほど、薄めて。
土塁の上に建つ神社は昔からの守り神だった
さて、解説もありますが、とりあえず土塁を歩いてみたいですよね。
残された土塁は幅11m、高さ9m、長さ40mほど。その北西の端に建つ神社へ、土塁の上を進みます。
この眺め、なかなかないでしょう。神社とお城が正真正銘合体しています。
ここには元々、栗田城があった頃から土地の産土神(昔からの守り神)である「栗田大元神社」が祀られていたとのこと。明治41年(1908)に、周辺の神社が合祀されて「水内総社日吉大神社」となったそうです。
ともあれ、800年以上前に人力で作られた土塁の上を歩いて参拝など、いい意味でゾクゾクしませんか。
「高松宮殿下御成記念」の碑が、高い位置にありました。昭和11年(1936)にここに来られたそうです。
登ってきた参道とは別の坂道があります。通ってみましょう。
境内の外へと続いています。
栗田氏は鎌倉~戦国の大豪族ー栗田新道へ戻りながらー
下りて来た道は裏参道でした。大変珍しい神社であり、城跡でございました。
それでは、この道をまっすぐ進んで、先ほど少し通った栗田新道へ戻ります。その道をそのまま歩いて行くと、江戸時代に高札場だった場所へ着きます。あの大きな高札が元々置かれていた場所です。
さて、栗田城を居館としていた栗田氏、歴史の教科書など表舞台にはなかなか登場しませんが、超重要な一族です。この一族抜きには善光寺も戸隠神社も語れません。
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栗田氏の祖は、信濃国更級郡の村上郷に配流された村上一族の子といわれています。そして栗田の地に城を築き居を構え、顕光寺という寺の別当職(寺務を統括する長官の僧職)を務めます。そして鎌倉時代以後、顕光寺だけでなく善光寺の別当職も栗田氏が世襲します。
この「顕光寺」、善光寺ほど有名ではないかもしれませんが、「戸隠神社」と言えばおわかりでしょう。明治の廃仏毀釈以前は、実は戸隠神社よりも顕光寺の名で全国に知られ、比叡山、高野山と並び修験者や参詣者を集めていました。
これら2つの大きな寺院の別当職を世襲するのですから、それはそれは地域への絶大な影響力を持った大豪族となったことでしょう。そして、顕光寺と善光寺は関連を強めていきます。参詣者は一度に両方をお詣りに行くことが多くなり、善光寺信仰は戸隠山をシンボルとした山岳信仰も取り込むようになります。
(『古地図で楽しむ信州』(笹本正治編著・風媒社・2019年7月10日発行)P83を参照)
戦国時代、川中島合戦の頃、武田信玄の命により善光寺の本尊が甲斐国へ移されます。それに伴い、善光寺別当だった栗田氏は甲府に移り、甲斐善光寺の別当となります。その後、本尊の移転やら、栗田氏が上杉氏に招かれたりやら、色々あったようですが、結局栗田氏が善光寺の別当に復職することは叶いませんでした。
一方で、同じ一族でも戸隠にいた栗田氏は戦国末期の慶長3年(1598)、戸隠神社の神職として取り立てられ、それ以降、明治維新の後まで一族が継承しました。
他、庄内藩、水戸藩、松本藩などに、一族の末裔たちが仕えています。
はい、やや濃いめの話を失礼しました。さわやか画像をお納めください。栗田新道に戻りました。歩いている皆様は、この風景が見えましたでしょうか?
木と石柱…そうです、お察しの通り、
道祖神です。
ところで、この栗田新道が出来る前は、「栗田道」または「栗田街道」と呼ばれる道が使われていました。これは善光寺の別当だった栗田氏が栗田城から善光寺へ向かうのに使われた道です。善光寺門前の、栽松院というお寺の南側で表参道に合流しました。
ちなみにこの表参道、現在の中央通りですが、かつては北国街道の一部でした。
善光寺門前町では「栗田さまの御成り道」とも呼ばれたという栗田道。現在は栽松院の南を通る「しまんりょ小路」に残されているのみだそうです。大きなきっかけは鉄道です。明治21年(1888)年に長野駅が開業するにあたり、栗田道も北国街道も鉄道により分断されてしまいます。その後、鉄道のガード下をくぐる「栗田新道」が昭和2年(1927)に開通すると、栗田道は使われなくなり、以後区画整理などでなくなってしまいました。
鎌倉時代からある道の栄枯盛衰の歴史を、道祖神の前で偲ぶのも、また一興ではないでしょうか。
進みます!
現役の水路は栗田の由来の名残り…かも
はい、ここでSkima信州おなじみ、地名の由来についてのお話です。
栗田町の由来は栗田氏…ではないんですよね。順序が逆で「栗田に住んだから栗田氏と名乗った」のです。村上一族の子孫というお話でしたね。
実は「栗」は当て字で、「えぐる」に由来しています。川の流れによってえぐられた台地であることから、「えぐりた」→「栗田」となったようです。
この先に川があります。見落としやすいのですが。
道祖神を左手に見て、そのまままっすぐ進むと、道の左側だけに白い柵が見えます。
振り返ると「古川」とあります。
この川はかつて、裾花川の支流の1つでした。裾花川は現在、長野駅周辺の市街地の西側を南下してますが、昔は今の県庁の辺りから南に東にと、いくつもに分流していました。本流はちょうど、先ほど紹介した「しまんりょ小路」の辺りを通っていたようです。つまり栗田は当時、裾花川の南側、右岸でした。そこに形成された自然堤防の延長線上に、栗田があります。
さて、少し進むと、こんな鋭角な曲がり角が左に見えます。
ちょっと寄り道します。
数秒歩くと水路が見えてきます。
左側から流れて来ています。
これは先ほど見た古川です!
右を見ると、古川は栗田の町を東へ横切って行きます。
この川もまた、かつてこの地をえぐったのかもしれません。
以上、水路好きには眼福な光景でした。
参考までに、南信州阿南町(あなんちょう)に「上栗田」と書いて「えぐりだ」と読む地名があります。急坂の上に町史跡の古墳があったりします。
円通院の位置が栗田城の東の端だった
寄り道から戻ると、幼稚園が見えます。
この辺りに、かつて高札場がありました。今は栗田城址に移設されている、あの立派な高札がここに掲げられていたのです。
この付近まで栗田城の範囲で、東の入口が近くにあったようです。つまり、栗田城は江戸初期に取り壊されますが、ここはその後も変わらず人が集まる場所だったため、高札場となったと考えられますね。今はちびっこたちが集まっています。
ところで、この幼稚園の奥に見えるもの、おわかりでしょうか?
お寺です。円通院さん、幼稚園の脇道を入ると全貌が見えます。栗田氏の守仏を祀った、栗田城内のお堂の跡ともいわれています。
江戸時代の中頃、明和年間(1760年代頃)には、かつて栗田氏の重臣だった三戸部氏の持分でした。この三戸部氏の屋敷の名残りが、後ほど見られます。
お地蔵さん。
たくさんいます。
この石塔にも三戸部氏の名が刻まれています。
余談ですが、「ルンビニ」とは釈迦の生誕地とされるネパールの村の名前です。
筆塚・道祖神・役場跡碑…石碑ぞろぞろ
来た道に戻り、道なりに進みます。
ところで「筆塚」ってご存知でしょうか?聞き慣れないかもしれませんが、文字通り筆の塚です。使い古した筆を地面に埋め、供養する塚のことです。
※画像はイメージです。
この先に、この地域の寺子屋の師匠だった人物の筆塚があります。学者・教育者といったら筆、というわけですね。その名を水内(みのち)俊昭と言うのですが、武士ではないのに名字帯刀を特別に許された、地域の名士の一人でした。しかも「水内郡栗田村」の水内です。
ちなみに、本名は倉石というのですが、この近辺、倉石さんというお家が多い気がします。
少し歩くと左手に、筆塚と道祖神が並んでいます。
この下に筆があるのでしょう。
達筆道祖神。石の形もきれいですね。上の「○」が気になります。
が、進みます。
時代は下って明治22年(1889)、栗田村は合併により芹田(せりた)村となりますが、村役場がこの先2分くらいの所に置かれました。
かつてはどんな入口で、どんな建物だったのでしょうね。
跡地は現在「JAながの芹田支所」さんになっています。
入口脇に石碑があります。
時代は変わっても木と石碑は仲良しです。
さて、反対側をご覧ください。
見事な松は栗田氏重臣の屋敷の名残り
大きなマンションが建っていますが、この辺りが三戸部氏の屋敷跡にあたります。
来た道をまっすぐ進みましょう。
交差点で後ろを向くと、このような眺めです。つまり、画像左奥からやって来たことになります。この右奥に、マンションを背景に立派な松が見られます。
一般のお宅のお庭なので、そっとお邪魔しましょう。
三戸部氏の屋敷の遺構はほとんど残されていないのですが、この見事な枝ぶりの松から、往時の名残りを感じられます。
松アップ。
踊るような松だったので、構図も踊らせてみました。
さて、戻りましょう。
戦後の栗田へあなたを乗せる森林鉄道
芹田村役場の跡とは反対側に進むと、歩道橋が見えてきます。久々、広い道に出ます。
「東栗田」という信号。栗田町の南東の端付近までやって来ました。この歩道橋の向かいにある芹田小学校の敷地は、平安以前からの遺跡でもあるそうです。
歩道橋は渡らずに、道路に沿って左へ進み、画像奥の信号を左折します。こちらが「東(あずま)通り」。一気に北上します!
この信号か、次の信号で道路の右側に渡ることをおすすめします。
西から東へ流れる水路…先ほどの古川かもしれません。別の水路かもしれません。いずれにせよ、戦後まで農村地帯だったことを感じさせてくれます。
そのそばに、農村ではないですが、森林に関する施設が。
中部森林管理局の建物です。昭和31年(1956)に、当時の長野営林局がこの地に移転されました。さて、その前はどこにあったでしょう?画像左奥にひっそりと写っているもの、おわかりでしょうか?
小さなディーゼル機関車です。
「長野営林局」とあります。そう、森林鉄道です。森林鉄道と言えば、木曽ですね。
中部森林管理局、かつての長野営林局は、元々西筑摩郡福島町(現木曽郡木曽町)にありました。それが昭和31年(1956)にこの場所へ移転されました。
木曽森林鉄道は大正3年(1914)、現在の木曽郡上松町から王滝村に長野県で初めて開通しました。その後、県内にも各所に森林鉄道が作られましたが、やがて木材の運搬手段がトラックに移行します。木曽森林鉄道は、日本で最後の森林鉄道となりました。
惜しまれつつも廃線となった昭和50年(1975)の翌年から、歴史を後世に伝えるべく、中部森林管理局の前庭で資料展示されているのがこちらの機関車というわけです。
では、一体なぜ長野市栗田に営林局が移転されたのでしょう?これには長野駅の歴史が深く関わっています。
今日、私たちは長野駅の東口からスタートしましたが、東口が設けられたのは戦後になってからのお話です。すると、駅に近いという立地から官舎が多く建てられました。その1つが「長野営林局」、今の「中部森林管理局」なのです。
東通りをそのまま北へ進むと「日本郵便信越郵政研修センター」や「日本郵政グループ長野ビル」が見えます。栗田郵便局が入る後者のビルは、出来た当時は「信越郵政局」でした。
他にも、国鉄(現JR東日本)や電電公社(現NTT東日本)などの官舎が建設され、善光寺の門前とは違った発展の仕方を見せます。やがて高度経済成長期には、農村地帯から住宅地へと変貌を遂げることになります。
栗田で見つけたかわいらしい機関車が、戦後の栗田へ私たちを案内してくれました。令和の時代もそのまた先も、タイムマシンになってくれることでしょう。
郵便局のビルの隣にある、公衆トイレの屋根から高く伸びる木を仰ぎ見て、
南部小学校の先の歩道橋から、2車線だけど車幅の狭い東通りを振り返り、
「南部小学校北」の信号にたどり着いたら左折です。まっすぐ西へ進み、長野駅東口公園やabn長野朝日放送の信号を渡り、長野駅東口へ戻りましょう。お疲れさまでした!
まとめとおまけ:長野駅から栗田町を想う
本当は他にもご案内したい史跡やミステリーなスポットがまだあるのですが、今回は「要点を押さえた一筆書きコース」を意識してご紹介しました。お散歩の参考に、そして栗田町を探るきっかけとして、ご活用いただけたら光栄至極でございます。
お別れのご挨拶に、長野駅のお話を少々。
こちらの大きな「善光寺」の扁額の脇に、長野駅の位置についての説明があります。
右側をご覧下さい。ここから善光寺まで十八丁(≒2km)離れています。これは善光寺のご本尊でもある阿弥陀如来が立てた四十八願のうち、王本願とも呼ばれる「第十八願」にちなんでいるそうです。
明治21年(1889)、当時の栗田村と南長野町の境に長野駅が開業します。長野駅をどこに作るか決める際、「善光寺の街」を基本構想としたため、位置も善光寺に由来し、発展の仕方も「善光寺の玄関口として」でした。
一丁(≒109m)ごとに石碑があるので、探しながら歩くのも善光寺詣りの楽しみが増えると思います。
長野駅に着いたら、やっぱりこっち、善光寺口。
…だけではないと、おわかりいただけましたでしょうか!
扁額や石碑に見覚えがないという方、実はこんなところにあります。
新幹線改札を出てすぐ左脇です。穴場かも。そして画像右奥が東口です。
そんな、善光寺と切っても切れない長野駅ですが、最後に「栗田地区の意地」と私が勝手に呼んでいる事実をお土産にお持ち帰りください。
長野駅
住所:長野県長野市大字栗田59 (参照:Googleマップ)
参考サイト:栗田町内会ウェブサイト
参考書籍:古地図で楽しむ信州