阿智村・園原の里に残る歌枕「箒木(ははきぎ)」とは?

園原の里「箒木」|阿智村

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阿智村の園原地区には、「箒木(ははきぎ)」と呼ばれる桧の古木があります。この箒木は、1000年以上も前から歌枕(地方にある和歌の名所)として朝廷の貴族に認知され、彼らもとても馴染み深い存在でありました。

世界最古の長編文学作品といわれ、日本だけでなく世界からも高い評価を得ている、紫式部の『源氏物語』にも登場します。長野県歌『信濃の国』にも「尋ねまほしき園原や」と歌われており、ご存知の方も多いかもしれません。

なぜ阿智の山奥に生えている1本の木が、貴族に認知されるようになったのでしょうか。古典文学において、箒木はどのような役割を果たしたのか…。今回はそんな「箒木」について紹介しようと思います。

「箒木(ははきぎ)」の由来と意味は?

園原の里「箒木」|阿智村
東山道・園原ビジターセンター はゝき木館 (ははきぎかん)

「箒木」という名前の由来は、幹が2又に分かれていて、その先は広がっており箒のように見えたところからであると伝わっています。その時期は不明です。

歌枕における「箒木」の意味は主に2つあります。1つは「あるように見えて実はないこと」、もう1つは「姿は見えるのに会えないこと」。遠くからは見えているのに、近くに来るとどの木であったか分からなくなってしまう箒木の姿から連想したものです。

また歌枕ではありませんが、後世(室町時代頃)には箒木を「母木木」と読み、離れた母親を想う時にも使われました。

阿智村には「箒木」や東山道・園原について学べるビジターセンターがあります。気になる方はぜひ足を運んでみてくださいね。

坂上田村麻呂の玄孫・坂上是則の歌で認知度が高まった

園原の里「箒木」|阿智村

次なぜ阿智の山奥に生えていただけの箒木が、平安貴族に認知されるまでに至ったかについてを解説します。元々箒木は、「遠くからは際立って見えるが、近寄るとどの木が箒木か分からなくなる」と言われていました。

この伝説を和歌に取り入れたのが、平安前期の貴族・歌人で、征夷大将軍で有名な坂上田村麻呂の玄孫であった坂上是則(さかのうえのこれのり)です。

彼は「園原や伏屋に生ふる帚木のありとは見えて逢はぬ君かな(園原の伏屋に生える箒木のように、確かに存在しているはずなのに、近くに行って逢うことはできない人であるよ)」という歌を残し、当時の文学世界における箒木の存在を確かなものにしました。

紫式部『源氏物語』にも登場

そして、この歌に着想を得たのが、紫式部でした。紫式部は、『源氏物語』を記しましたが、主人公である源氏が、物語の序盤に、友人と「雨夜の品定め」と呼ばれる女性の評価についての意見交換会を行う場面があります。この場面が記されている巻こそが「箒木」巻です。

「雨夜の品定め」によって源氏が興味を持ったのも、作中では「箒木」と呼ばれるような女性だったのでした(なお、この女性は現在は箒木ではなく、彼女が詠んだ歌から「空蝉」と呼ばれています)。彼女が「箒木」と呼ばれたのは、源氏にとって彼女が箒木のような女性であったからであり、巻名も彼女に由来します。なお、現在ではもっぱら「空蝉」と呼ばれるので、ここでは彼女を空蝉と呼びます。

▼源氏物語「箒木」巻要約

源氏は、「雨夜の品定め」において、「中の品(中流層のことで、源氏のようなトップクラスの貴族ではなく、地方官として都から下向した現在の都道府県知事のような存在)の女性が良い」と友人に説かれ、中の品の女性に興味を持った源氏は、翌日、方違え(自分にとって不吉な方角を避けて目的地を目指す行為)を口実に、紀伊守(現在の和歌山県の長官)の家を訪れます(ただしそれは、友人らの話を聞いたからというだけではなく、正妻である葵の上が身分の高い女性でプライドも高く、源氏との夫婦関係が上手くいっていなかったことにも起因していました)。

紀伊守の家には、紀伊守の父・伊予介(現在の愛媛県の次官)の後妻である空蝉も一緒にいました。彼女は、紀伊守の父の後妻とはいえ、年齢的には紀伊守と同じくらいの人です。源氏は、空蝉のことを文字通り垣間見たことで、空蝉に興味を持ち、半ば強引に口説き落としました。

この時に源氏と空蝉との間に交わされた和歌が
帚木の心を知らで園原の道にあやなくまどひぬるかな(園原の箒木のような貴女の心をはかりかねて、迷っていることであるなぁ
数ならぬふせ屋におふる名の憂さにあるにもあらず消ゆる帚木((源氏のような高貴な身分の人からすると)取るに足らない、卑しい伏屋に生えているという帚木のように、自分の境遇に恥じて消えてしまいたい)
というものでした。

『源氏物語』での箒木は、源氏と空蝉という身分の異なる2人の恋を印象付ける存在であったのでした。

ちなみにこの後のことを簡単に説明すると、1度は源氏に身を許した空蝉も、その後は全く源氏に取り合おうとはしませんでした。源氏は空蝉の弟を家来として仲介をさせるなどしてチャンスを設けたものの、起点を利かせた空蝉が、衣1枚を残して部屋から逃げたことで、再び空蝉に逢うことは叶いませんでした。

個人的には、源氏と空蝉の話は、「高い身分の自分なら恋仲になれるだろう」と思っていた源氏と、「高い身分の源氏だから自分のプライドのためにも恋仲にはなりたくない」と考えた空蝉の考え方の違いや、空蝉に逃げられて自尊心を砕かれ、その後も空蝉のことを引きずり続けた源氏の心理状態を上手く表現している紫式部の作家としての腕に震えました。というのも、空蝉のモデルが紫式部自身だったらしいので、そういうのも関係しているのかもしれません。

箒木を同じ音の「母」にかけた『栄花物語』

源氏と空蝉の話は、六条御息所の話と並んで大好きな箇所なので、つい語ってしまいしましたが、『源氏物語』以外にも、同時期に活躍した女性歌人である赤染衛門(あかぞめえもん)が記した、平安中期の歴史物語『栄花物語』にも、少しだけ箒木が登場します。『栄花物語』では、「大后の宮」という人物が「日の本には箒木と立ち栄えおはしまして(日本に箒木(=母)として栄えていらっしゃって)」と表されています。

母と同じ音の箒木という言葉を用いて、さらに「立ち栄えおはします」と縁語(主想となる語と意味上密接に関連し合うようなことばを、他の箇所に使用して、表現のおもしろみやあやをつけること。また、そのことば。(コトバンク『縁語』より引用)のように続けているのが、いかにも平安歌人の書いた文章、赤染衛門の書いた文章だと思えて良いです。

阿智村・園原の里に残る歌枕「箒木(ははきぎ)」まとめ

園原の里「箒木」|阿智村

是則の歌と『源氏物語』を続けて記すために上では省略しましたが、10世紀前半には、元良親王という皇族が「ははきぎをまたすみがまにこりくべてたえしけぶりのそらにたつなは(近寄ると消えてしまう箒木のような貴女のことを思い忍ぶと心が燻るようで、絶えた煙も空に見えるようだ)」という歌を残しています。

阿智の山奥にある一本の古木がこれだけの文学作品を生み出しているように、日本文学には奥深い作品がたくさんあるので、ぜひそのような作品を自分で探してみてください。あと、『源氏物語』に興味を持った人がいたなら、「須磨」巻で挫折するいわゆる須磨源氏でもいいと思うので、1度は読んでみてほしいです。

参考文献

東山道・園原ビジターセンターはゝきぎ館「箒木」(https://www.hahakigi-kan.com/
『新日本古典文学大系 源氏物語』(岩波書店、1993年)
『新日本古典文学大系 栄花物語』(岩波書店、1995年)
片桐洋一編『元良親王集全注釈』(新典社、2006年)

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この記事を書いた人

信州さーもん

スキマな観光ライター。長野県内外、国外を旅します。長野県観光WEBメディア「Skima信州(http://skima-shinshu.com )」代表。道祖神宿場街道滝ダムため池棚田神社仏閣好きな平成生まれの魚。浅い知識を浅いままに増やしています。企画・アイディアを出すのが得意。たぶん。