須坂市の旧小田切家住宅で2023年2月に発行したばかりの『木食の地から 但唱・閑唱』という本を見つけました。
読んでみるとさっそく面白いことが分かりました。
皆さんは「木食(もくじき)」をご存知ですか?
「木の実や草だけを食べる修行をしていた僧」を指しますが、そんな木食たちがこもったお山が長野県のあちこちにあるのです。
中でも今回は須坂市や駒ヶ根市にゆかりの深い木食「但唱(たんしょう)」についてご紹介します。
木食の祖「弾誓(たんせい)」の弟子「但唱」
室町時代末期、1551(天文20)年に生まれた「弾誓(たんせい/たんぜい)」は、熊野や佐渡での修行を経て14年間木食行を続け、木食の祖となりました。
そんな弾誓が生まれた28年後の1579(天正7)年に兵庫県で生まれ、のちに弟子となったのが但唱です。
但唱は1606(慶長11)年に越後米山での修行を終えて弾誓に従じ、のちに「念来称帰命山」の法名を授かりました。
その後長野県で布教活動を行っています。
米子大瀑布近くの奇妙山にこもった但唱

1611(慶長16)年に再び信州入りした但唱は、須坂市の米子大瀑布近くにある奇妙山にこもり、木食修行を行いました。
このとき但唱の弟子として一緒に木食修行をかさねたのが、当時9歳の「閑唱(かんしょう)」です。
帰命山 萬龍寺(須坂市)を開基した但唱

米子大瀑布や奇妙山とも近い須坂市亀倉町にある「帰命山 萬龍寺」。
1617(元和3)年に但唱が開基したお寺です。
本堂の中には但唱作と思われる千体仏や地蔵尊14基が安置されているそうですが、わたしの参拝時には人がおらず見学することができませんでした。ざんねん!

本堂向かって右側には「御遺物(ごいぶつ)さん/負い仏さん」と呼ばれる石仏があります。
但唱初期の作品だと言われており、これを背負って布教したと伝えられています。
首を斬られた跡があるのは、明治期の廃仏毀釈によるものでしょうか。ていねいに修復されています。
帰命山 安性寺(駒ヶ根市)を開基した但唱
奇妙山での修行を終え関東で布教を行ったあと但唱52歳のとき、1631(寛永8)年に駒ヶ根市で「帰命山 安性寺」を開基しました。翌年には弟子の閑唱に住職を任せ、また山へこもったそうです。
ご本尊の木造阿弥陀如来坐像は但唱と閑唱との合作。こちらも一度見にいってみたいです。
松川町の山地で不審者と疑われるも、五智如来を完成させる
安性寺を去った但唱は1632(寛永9)年、弟子たちと伊那大島(松川町)の山に入り、1年半かけて五智如来を作仏していました。
像が完成したとき、地元住民たちに山を荒らす不届者に間違われて立ち退きを命じられた上に仏像を没収されるというハプニングがありました。この話めちゃ面白いです。
1634(寛永11)年に江戸からのお達しで仏像は戻され、品川まで運ばれます。品川区には「帰命山 如来寺」が開かれ、五智如来は「おおぼとけ」として江戸の名所となりました。のちに火災で焼失しますが、但唱作といわれる薬師如来は現在に伝わっているそうです。
如来寺にて61歳で還化
京都に多くの石仏をおさめたその年、1641(寛永18)年に開基した如来寺で61年の生涯を終えました。
江戸時代に入り秩序が重んじられ、僧の役割はお寺の管理や葬儀など合理的なものとなっている時代でした。
但唱は弾誓から受け継いだ木食行を存続させようと、幕府の中枢にいた天海と関係性をつくり、天台宗に入ることで活動を保証させるなど奔走していたようです。
そんな努力も虚しく木食は徐々に時代の表舞台から姿を消していくこととなりました。