こんにちは、信州大学大学院1年の宮田です。普段は蝶と蛾を追いかけていますが、今回は祭りの話です。
山奥で行われる祭りと聞いて、あなたが思い浮かべるのはなんでしょう。例えば長野県では、信州三大秘境のひとつに挙げられる南信の遠山霜月祭が国重要文化財に指定されており、たいへん有名です。遠山郷では各神社で夜を徹して湯立神楽が厳かに奉納されています。
今回ご紹介するのは素朴でささやかな、でもちょっと賑やかで少し温かい祭り。すなわち、戦後過疎化の進んだ池田町広津の山村集落でひっそりと行われてる祭りです。
本記事は日本最大級のお祭り情報サイト「オマツリジャパン」さまとのコラボ企画です。今回ご紹介する広津のお祭りに参加してきた様子は「オマツリジャパン」内に公開予定!お楽しみに!
→日本中のお祭りを見てきた?オマツリジャパン編集部・和光が個人的におすすめする長野県のお祭り5選 も合わせてご覧ください。
池田町の山村集落群「広津(ひろつ)」
広津は、長野県北部の池田町(いけだまち)北東部にある山村集落群です。池田町の西半分は松本盆地に面していますが、東半分は山になっています。広津はそのうち北端に広がっていて、面積は11平方kmと町の約四分の一を占めています。
山がちな地形ですが、尾根筋や谷に沿って約25の集落が点在しています。昭和30年代には合わせて約1300人が生活していましたが、現在の人口は約80人と、半世紀で1割以下に著しく減少しました。すでに無人となった集落も少なくありません。朝日放送テレビの「ポツンと一軒家」に紹介された家もあります。
広津については、別記事「さぁ、限界集落で楽しもう」~池田町広津地区を巡る旅~ をご覧ください!田舎体験や観光プランも参考になります。
一歩入れば別世界「広津」の魅力
池田町の中心にほど近い「池田5丁目」交差点から車でたった10分。車窓から眺めるだけでも、要所々々に出現する集落名が書かれた道路標識、人気のない大きな家屋、暗く茂った針葉樹の森に道端の道祖神など、多くの人が日常生活において目にしないであろうものが次々と出現します。褪せた生活感と静寂が張り詰める広津の雰囲気には、池田町在住の筆者ですら全くの別世界に来たと感じざるを得ません。これこそ、広津の魅力の根幹にあるものに間違いないでしょう。
広津はかつて養蚕や農林業によって栄えた土地で、今も残る大きな古民家からは経済的にも比較的豊かな生活を営んでいたことがうかがえます。近代は桑園にされていた斜面の大部分は植林によりスギやヒノキの森になっていますが、当時の家屋や僅かに残る耕作地に昔ながらの山村風景を偲ぶことができます。
自然の豊かさも随一です。当然ですが、街も商店もコンビニも自動販売機もありません。聞こえるのは鳥のさえずりと風が木々を揺らす音、草刈り機やチェーンソーの音ぐらいです。「自然」というと漠然としていますが、具体的には生物多様性が高いことが挙げられます。その要素のひとつ、環境の多様性を象徴するものとして、薪炭材に使われていたコナラやクヌギなど多くの樹種によって構成される雑木林が広がっていることが挙げられます。人間に利用される機会は格段に減っていますが、今もなお多くの動植物の命を支えています。また、小川が流れ、民家の庭や耕作地、その放棄地は明るく開けているため、人と自然の共存した里山の風景が広がっています。このように、地理的、歴史的条件が生物多様性を高めています。
現存する広津7社の神社について
長野県神社庁によると、現在の池田町広津には7社の神社があります(池田町広津の住民が崇拝対象としている神社は全9社)。それぞれの神社の氏子集落はたいてい2,3集落で、人口が最も多かったときには1社につき100人以上の氏子がいたと考えられます。現在は氏子がおらず例祭などが行われないいわゆる「不活動神社」が3社あり、かつての氏子が時々境内の草刈りに訪れるなど、最低限の管理がされているにすぎません。残りの4社は数人の氏子によって維持管理が行われています。
7社各々の勧請年には多少の差があり、中には勧請年不明とされている神社もありますが、おおよそ14世紀か15世紀に創立されています。主祭神は神社によって異なりますが、それぞれで祀られている神は集落の産神と考えられているようです。基本的には集落の上に神社が作られることが多いですが、芦崎(あしざき)神社のように集落から参道を下ったところに神社が建てられるケースもあります。
簡略化しながらも受け継がれる広津の「お祭り」
ここまで紹介してきたように、広津の神社は氏子が少なく維持管理だけで手一杯となっており、祭りに十分なリソースを割けないという現実があります(これは他の多くの山間地域も抱えている問題かもしれません)。そのため現在行われている祭りはかつてより簡略化されています。2日間の日程を1日に短縮する、幟(のぼり)を立てるのをやめる、集落を練り歩くのをやめる、獅子舞を舞わなくなるなどの工夫が施され、少人数でも祭りが執り行えるようになっています。
広津でもっとも氏子が多い楡室(にれむろ)神社の2019年の例祭の流れを紹介します(詳しくは、オマツリジャパンさまに公開予定です!)。
例祭を次週に控えた10月6日、和紙を使って神楽殿や拝殿に飾り付ける花飾りと紙垂(しで)を制作しました。筆者も一緒に体験しましたが、和紙が色水を吸う速度が思いのほか速いため、紙全体が水浸しになってしまうなど、慣れないと難しい作業です。翌週、例祭前日の13日は台風19号によって落ち葉だらけとなった境内の掃除の後、提灯や幕、旗の取り付け、幣やしめ縄、榊の新調に加え、獅子頭や太鼓、神楽の神楽殿への設置が行われました。
例祭当日の14日は、拝殿内で神主による祭式が執り行われ、引き続き直会(なおらい)に移行します。神主が直会の意味を「神前に捧げた食べ物や飲み物を氏子の皆さんで分け合って身体の中に入れることで、神のご加護にあやかることができます。」と挨拶代わりに述べたのち、三方(さんぼう)に載せられ供えられていた酒と食べ物が振る舞われます。氏子の方が作った煮物など、ここでしか食べられない逸品料理もあります。食事が終わるとすでに4時頃。暗くなる前にと急いで片付けが行われ、最後に水で火を消して全ての段取りが終了します。
昭和年間で失われた広津の「獅子舞」
かつて広津の祭りはたいへん賑わっていたようですが、ここではそのうち獅子舞について見ていきましょう。筆者の調査により獅子舞が行われていたことは多くの神社で確認されていますが、昭和年間には全て行われなくなってしまったそうです。ここでは、広津の獅子舞の一例として楡室神社のものを、氏子の方から拝借した音源や映像をもとに紹介していきたいと思います。
道具について
楡室神社の獅子は、獅子頭と幌(風呂敷のような布)によって構成されています。獅子と一緒に「神楽」と呼ばれる長持ちの上に社殿がくっついたような道具が一緒に担がれます。神楽には大きい太鼓(紐締長胴太鼓)と小さい太鼓(締太鼓)の2つが設置されていて、演奏に使われます。また、神楽には灯籠や提灯が吊るされており華やかです。社殿は松本など長野県の中部のものと比べて技巧を凝らした装飾的なものであることが大きな特徴。
舞いや音楽について
楡室神社の獅子舞は、3つの場面に分けることができます。ここでは便宜上、それぞれを「幌舞(ほろまい)」「幣舞(ぬさまい)」「狂い舞(くるいまい)」と呼ぶことにしましょう。
獅子舞は神主が祝詞奏上を始めるのと同時に始まります。最初の舞は幌舞ですが、これは幌を広げた状態で行われるものです。前役(まえやく、獅子頭を被った人)の基本的な姿勢は、猫背、前のめりで足を肩幅より広めにした格好です。後持ち役(うしろもちやく、獅子の後ろで幌を持つ人)は腕を上に伸ばして幌を高く持ち上げた姿勢を維持します。前役は手を伴奏に合わせて左右に揺らします。派手な動作が一切ない素朴な舞です。
一連の囃子が終わると、「皆さん尺のご拝を持ちて 悪魔を払う目出度(めでたい)な 太平楽世と新る世い コリャヤレナ」という掛け声とともに幣舞に移ります。幣舞では幌が仕舞われ、前役の腹巻きに収納されます。前役は右手に御幣を、左手に太鼓のバチのような棒を持ちます。後持ち役は幌を巻いてコンパクトにして補助的に手で持ちます。
伴奏と唄が交互に奉納されるのが特徴で、舞も歌詞に合わせて振り付けが決められている部分があります。例えば「悪魔を払う」という歌詞とともに御幣でお祓いをするような動作がなされます。また、御幣やバチを用いて三角形を描くような動作や手を回転させる動作などは、なんとも意味深長ですが、今ではその意味を覚えている人はいないようです。歌詞は江戸時代末期から明治にかけての流行歌から取られているものが多いですが、由緒不明の歌詞も存在します。どこかから伝播してきた歌詞と独自に作られた歌詞があるのかもしれませんが、詳細は不明です。
獅子舞のフィナーレを飾るのは狂い舞です。獅子頭が激しく揺れながら前後左右へと動く姿は圧巻。狂い舞は、前役の人が手に持っていた御幣とバチを地面に落とすところから始まります。同時に幌が広がりますが、これにより外から見えるのは獅子頭と幌だけとなります。あたかも本物の獅子がそこにいるようです。太鼓と笛の伴奏に合わせて挙動の緩急がつけられます。口をパクパクさせたときに獅子の中から鈴のような心地よい金属音がします。
広津の獅子舞の伝承
広津では、少なくとも100年ほど前から獅子舞の伝承が各集落、各神社で行われていたようです。どの集落でも、20歳前後になると「師匠」と呼ばれる集落内の先輩から口頭で教えられていたといいます。獅子舞を奉納していたという数社の氏子に聞き取り調査を行った結果は次の通りです。すなわち、戦後の人口流出や廃校などにより後継者がいなくなってしまい、最後の師匠が病などで舞台に上がれなくなると、欠員を補充できずに中断し、そのまま二度と行われなくなったようです。
獅子舞が中断する以前、昭和30年代から伝承体系自体はすでに崩壊しており、獅子舞が姿を消すのは時間の問題であったといえるでしょう。山村の過疎化という社会現象に対し当時の氏子たちは手の施しようがなく、獅子舞を続けていくことを当時の人々は心のどこかで諦めていたかもしれません。慣習や技法は基本的に口頭伝承であるため、記録されることなく失われてしまうことが多いようです。筆者は獅子舞のカセットやビデオを集落中で探し回りましたが、残っていたのは2集落のものにとどまりました(それでも2集落分残っていたのは奇跡かもしれません)。
約30年ぶりの復活を果たす?!楡室神社の獅子舞
このような伝承の、ひいては祭り自体の消滅は他の中山間地域でも起こっていることかもしれません。現在はかろうじて行われている祭りや獅子舞等の奉納の中にも、近い将来なくなってしまうものが多いと思います。筆者には、そこにかつて(といってもせいぜい数十年前)あった文化が跡形もなく失われてしまうことは非常に寂しく、惜しまれることに思えてなりません。
ただ、それは仕方がないことです。時代の流れに逆らって当時の祭りや文化を無理矢理とどめておくのは極めて困難で非現実的です(そもそも、祭りはその土地の人と生活があってはじめて成立するものですよね)。筆者としては人々の記憶を記録して形に残すというのが落とし所なのではないかと思います。文化的、時代的背景など、その変換の過程で削ぎ落とされてしまうものがあることを承知しつつ、アーカイブ化することが求められていくのではないでしょうか。
さて、楡室神社の氏子の中では、約30年ぶりに獅子舞を復活させようという機運が高まっています。途絶えた伝承を復活させるという興味深い試みを、筆者としても注意深く追っていきたいと思います。
本記事は日本最大級のお祭り情報サイト「オマツリジャパン」さまとのコラボ企画です。今回ご紹介する広津のお祭りに参加してきた様子は「オマツリジャパン」内に公開予定!お楽しみに!
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