小林一茶は、長野県信濃町は柏原に生まれた江戸後期の俳人です。
松尾芭蕉や与謝蕪村とともに江戸時代を代表する俳人として有名。シンプルで親しみやすい作風は「一茶調」と呼ばれます。感じたことを日記のようにしたため続け、その数は2万句にも及びました。
やせ蛙 負けるな 一茶 これにあり
— 小林一茶
小林一茶といえば、上の句を思い出す方も多いのではないでしょうか。
小さくて弱い生き物に親しみを覚える一茶の視点は前向きなようでいて、少し切なさを覚えることも。「やせ蛙」の句を詠んだ54歳の一茶はその1ヶ月後に息子を亡くし、その後も相次いで子どもを亡くしました。
我と来て 遊べや 親のない雀
— 小林一茶
自身の幼少期(6歳頃)を回顧して詠んだ上の句。「親のない雀」とは母親を3歳で亡くして15歳で奉公に出された自分の境遇と重ね合わせていると考えられます。
小林一茶の人生を知ると、作品により奥行きが出てくるかも!
ということで今回は小林一茶の生涯や作風、人生観を分かりやすくご紹介します。
小林一茶の生涯
母に恵まれなかった幼少期
小林一茶の本名は「小林弥太郎(やたろう)。
1763年に長野県の柏原(信濃町)に生まれました。野尻湖の近くにあり、江戸と金沢を結ぶ北国街道沿いの宿場町です。
3歳で母親を亡くし祖母に育てられてきましたが、7歳の時に後妻がやってきて、10歳の時に弟が生まれます。14歳で祖母が亡くなると継母との折り合いが悪化し、15歳で江戸へ奉公に出されました。
15歳〜25歳までの10年間、一茶が何をしていたのか記録は残っていません。
俳諧との出会い
江戸へ奉公に出た一茶ですが、その暮らしは決して楽ではなかったようです。当時、信濃から江戸へ出稼ぎにくる者は多かったらしく、「椋鳥(むくどり)」と呼ばれて蔑まれていたのだとか。
椋鳥(むくどり)と 人に呼ばれし 寒さかな
— 小林一茶
「方言でうるさく喋る田舎者」という意味があるそうで、一茶もその辛さを上の句に記しています。冬に暖かいところへ移動することから、冬に稼ぎ口を求めて上京する信州の男性に対してよく使われた言葉。
そんな中で出会ったのが「俳諧」です。
友人であった俳人の山口素堂(そどう)を始祖とする俳諧グループ「葛飾派」に属し、腕を磨いていきました。
14年ぶりの帰郷と西国修業
15歳で江戸へ出た一茶が帰郷したのは14年後の1791(寛政3)年、一茶29歳のことでした。善光寺を参拝してから信濃町へ入ります。
父母の健やかなる顔を見ることのうれしく、めでたく、ありがたく
— 小林一茶
父だけでなく確執のあった継母との再会を喜ぶ記述も見られましたが、その後も継母との関係が修復されることはありませんでした。
江戸に戻った一茶は俳諧修業の旅に出ます。西国、四国、九州などを3年かけて巡り、「たびしうゐ(旅拾遺)」という本にまとめました。
さらに4年ほど西国をまわり続け、2冊目の本「さらば笠」を出版。足掛け7年の西国修業を終えた一茶は確実に実力をつけ、「全国俳人番付」に葛飾派で唯一ランクインしました。
父の終焉日記
1801(享和元)年3月、父危篤の知らせを受けて再び柏原へと帰郷します。その後父は一茶に看取られて亡くなり、壮絶な遺産相続争いへと発展していくことに。
一茶は父の様子とその後の相続問題について「父の終焉日記」に記します。争いはその後13年にも及びました。
父ありて あけぼの見たし 青田原
— 小林一茶
上の句は一茶が父を看取った初七日に詠んだ句。農家として生きた父への敬意と、農民として生きられなかった自身への負い目が感じられます。
柏原への永住決意と初めての結婚
相続争いにようやく終止符が打たれ、一茶は生家を手に入れることができました。51歳の時です。
大の字に 寝て涼しさよ 淋しさよ
— 小林一茶
大きな家を手に入れた嬉しさと、ひとりでいることの淋しさが感じられる一句。ただしどうやら生家は手に入れたものの実際には弟家族が住み続けており、一茶は柏原の借家に住んでいたようです。
この頃には俳人番付「正風俳諧名家角力組」で東方八枚目(江戸の俳諧師で3番目)になり、全国的にも知名度が上がっていました。
これがまあ 終の栖か 雪五尺
— 小林一茶
信濃町に永住を決めたことを表す一句。雪5尺とは1.5メートルほど。信濃町の雪深さがうかがえます。
そんな中、一茶は52歳にして24歳年下の菊と初めての結婚をします。
三男一女と妻の不遇
菊の間に3男一女をもうけますが、全員が2歳を待たずに死亡。この時の喜びと悲しみを綴ったのが、俳諧俳文集『おらが春』です。
めでたさも ちう位(ちゅうくらい)也 おらが春
— 小林一茶
『おらが春』のタイトルの由来になったのが上の句。50歳を過ぎてようやく訪れた「春」に対する一茶の複雑な気持ちが「中くらい」という言葉に表されています。
人並みの幸せをついに得ることができた、最上級の喜びも感じるんだよな〜。
▼一茶の亡くなった子どもたち
名前 | 生年月日(死亡年齢) | 死因 |
千太郎 | 1815年5月10日(生後28日) | ? |
さと | 1818年6月7日(1歳2ヶ月) | 天然痘 |
石太郎 | 1820年11月10日(生後3ヶ月) | 事故(窒息死) |
金三郎 | 1822年5月1日(1歳8ヶ月) | 栄養失調 |
7年間で4人の子どもを失った一茶は、さらに三男出産後に体調を悪くした妻・菊も看取ることになります。享年37歳でした。
もともとの 一人前(いちにんまえ)ぞ 雑煮膳
— 小林一茶
次々と家族の死に見舞われた一茶は「もともと独り身だったのが元に戻っただけだ」とやりきれない寂しさと諦めの気持ちを詠んでいます。
ちなみにそんな悲しみの中にいた一茶が何度も訪れて感動した「姨捨」との関係については別記事にまとめているのであわせてご覧ください。
2度の再婚と晩年
1人目の妻・菊を失った一茶は、1824年に飯山藩士の娘・雪と再婚します。この時雪は38歳で一茶は62歳、再婚同士でした。しかしその関係は良好ではなく、わずか3ヶ月後に離婚。
しかし一茶は自作農家の後継としてどうにか子孫を残していかなければならないという使命があります。64歳で2歳児を連れた32歳のヤヲと再再婚しました。
ようやく平穏を取り戻したかのように見えた一茶でしたが、さらなる不幸に見舞われます。柏原宿の8割が焼け落ちる大火により、生家をはじめ一茶の住んだ家や弟の家なども焼失してしまいました。その後はなんとか焼け残った土蔵に一茶の家族や継母、弟夫婦と一緒に住むことになったようです。
やけ土の ほかりほかりや 蚤さはぐ
— 小林一茶
一見どん底にも見える境遇を小さなノミを通して、上のように詠みました。「焼け残った土蔵に住んでいるとまだ焼土が熱を持っているようだ。ノミも騒いでいるよ」。
悲しみでも苦しみでもなく、どこか諦めているようにも見えるこの一句。諦めという言葉は一見後ろ向きですが、すべてを受け入れているような、一茶の前向きな気持ちにも受け取ることができます。
突然の死
たくさんの家族に先立たれ家も焼け落ちた一茶ですが、7月の火事の後も俳諧師匠としての巡回指導を続けました。
久しぶりに土蔵に戻ったある日、気分が悪くなった一茶はそのまま夕方に亡くなります。突然の死でした。
一茶の死後にヤヲは第一子・やたを出産し、小林家を継ぐこととなります。
俳号「一茶(いっさ)」の意味と由来
一茶は自身の由来を以下のように記しています。
「西にうろたへ、東にさすらい住の狂人有。旦には上総に喰ひ、夕にハ武蔵にやどりて、しら波のよるべをしらず、たつ泡のきえやすき物から、名を一茶房といふ。」
— 小林一茶
立ってはすぐに消えるお茶の泡に自分を重ねていたのでしょう。マイナスなニュアンスではなく、風来坊である自分の生き方を誇らしく表しているように感じます。
小林一茶の代表作
これまで紹介しなかった小林一茶の代表作をいくつかご紹介します。
すずめの子 そこのけそこのけ お馬が通る
スズメの子よ、馬(竹馬?)に踏み潰されてしまうからどきなさい!
— 小林一茶
名月を とってくれろと 泣く子かな
お団子やお芋のようにまん丸な満月を取って欲しいと泣く子ども。
— 小林一茶
雪とけて 村一ぱいの 子どもかな
雪が溶けるのを待っていたように村中の子どもたちが外で遊んでいる
— 小林一茶
小林一茶ゆかりの地
一茶記念館|信濃町
小林一茶が生まれ育った信濃町にある「一茶記念館」。近くには一茶のお墓があります。
一茶館|高山村
一茶のアトリエがあった高山村の一茶館。12分のムービーでざっくり一茶のことがつかめます。高山村に所蔵されている多くの資料が展示されているので、北信濃における俳諧の歴史も勉強になりました。
お隣には一茶が仮住まいしていた茅葺き屋根の家もあります。
人にいきた江戸期の俳人「小林一茶」とは?まとめ
小林一茶の生涯や代表作、ゆかりの地などをまとめてご紹介しました。
あっけらかんとしてシンプルな作風の裏には、意外にも壮絶な人生が隠されていたのです。人柄を知ればますます、彼のまっすぐであたたかい気持ちが伝わってくるようですね。
小林一茶に興味の出た方は、高山村と信濃町にある一茶関連のミュージアムに足を運んでみてはいかがでしょうか。
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