千国街道「池田宿」の歴史と史跡を散策しよう!暗渠や池田学問所、他屋跡などをめぐる

※当サイトのコンテンツにはプロモーション(広告)が含まれています

長野県の北アルプスエリアにある池田町

今から8,000年前、縄文時代から人が住み始めたといわれていますが、今回は江戸時代の宿場町として栄えた池田町に焦点をあてて散策してみようと思います。

池田町

今回ご紹介する内容の一部は、池田町文化財資料館展示室の展示や池田町教育委員会の発行する「池田ものがたり」を参照しています。ちなみに少し改変して池田町のフリーペーパー『いけだいろ』にも掲載予定です。

千国街道の宿場町としての「池田宿」

池田町の歴史

池田の町は中世の時代から、松本と糸魚川を結ぶ約120kmにおよぶ仁科道(千国街道)の道筋にありました。以前は仁科氏によって治められていましたが、武田氏に滅ぼされ、その武田氏も織田信長によって滅ぼされました。江戸時代の池田町は松本藩に治められ、小笠原氏の領地となったのです。

千国街道や全宿場町のまとめは千国街道(塩の道)とは?図と写真でご紹介!全部行ってきたまとめをご覧ください!

池田宿の南端「如意輪観音堂」

池田町の歴史

まずは池田宿の南端にある如意輪観音堂からスタート!池田宿には北端にも同じように如意輪観音堂があるので分かりやすいかと思います。先日2箇所ともGoogleマップに登録しておいたので、探しやすくなっているはず。隣には二十三夜塔と相対道祖神が鎮座しています。

以前はこの角の道を南北に走っているのが仁科道だったようですが、今は桝形にカーブしています。桝形は中世に敵からの侵入を防ぐためにつくられたもの。江戸時代よりも前に成立した宿場町であることが伺えますね。

古地図を見ると分かりやすいので、資料館の展示物を拝借しました。当時はメイン道路の真ん中に「町川」が流れていましたが、明治中期に埋め立てられ、道路の両側に分流したことも書かれていますね。

池田町の歴史
池田町文化財資料館展示室より
池田町の歴史

上の道をまっすぐ東へ進むとメイン道路に突き当たり、ふたたび北上します。

池田学問所跡

池田町の歴史

池田宿のメイン道路を北上し、池田郵便局を過ぎたあたり、道向かいに「池田学問所跡」を見つけることができます。はじめ、資料館の方に「池田宿を調べに来ました」と尋ねたら「池田塾」だと勘違いされてしばらくすれ違いが起こりました。この辺りで「いけだじゅく」といえば池田学問所のことを指すようです。

天明8(1778)年に池田町村の庶民たちがお金を出しあって、当時としては立派な校舎を建てて「池田学問所」と名付けました。当時は商いが盛んになり、学問を学ぼうという機運が高まっていたようです。

周辺には格子戸のある古い家の様子も見られます。

池田町の歴史

各所に「うなぎの寝床」の名残りあり

池田町の歴史

八十二銀行池田支店の駐車場に入ると、表からは想像ができないほど立派ななまこ壁に出会えます。銀行の隣には「古久庄(こくしょう)製糸場」があり、地元の方からは「古久庄の蔵」と呼ばれているとか。一度近代的にリフォームしたものを、平成に入ってまた復元した建物だそうです。ちなみに池田町は江戸末から明治初期にかけて、製糸業で栄えた歴史もあります。ちなみに妻壁の部分に「男山」と書いてあり、理由を調べましたが謎でした。誰か教えてください。

江戸時代のような面影はありませんが、池田町の宿場町らしさは「うなぎの寝床」に残っていると感じています。

池田町最古の木造建造物「他屋(たや)跡」

池田町の歴史

池田町役場の方から八幡神社に行く手前に、「他屋跡」が残っています。他屋(たや)とは代官所の支所を意味し、松本藩の出張所のような役割がありました。他屋の門は「役居門(やくいもん)」と呼ばれ、江戸時代唯一の建築物です。池田宿は安政の大火により、江戸時代の建造物はあらかた燃えてしまったようです。他屋は家屋の密集地とは少し離れた場所にあるため、被災を免れたと考えられます。

明治時代以降は名主会議場、池田上学校、病院、戸長役場の門として利用されていました。大正初期に新設された池田町役場の門として移転され、さらにその後池田新庁舎建設に伴い、現在の場所に再移転しました。

池田町には「御他屋(おたや)」という地名も残っているそうですが、現在の様子はよく分かりません。下画像の「江戸時代中頃の池田宿絵図」を見ると、浄念寺さんのまっすぐ東側に「御他屋」の文字を見つけました(赤丸参照)。元々の他屋はこの辺りにあったようですね。思ったより中心街からは離れた場所にありました。現在は福祉センターがあるあたりでしょうか。

池田町の歴史
池田町文化財資料館展示室より

かつて火災の延焼を防いだ「火屋塀(ひやべい)」

池田町の歴史ひゃべい
池田町のひやべい

池田宿を歩いていると、1〜2mほどの小路を見かけます。これは江戸時代頃、火事の延焼を防ぐためにあえて家屋の間にスキマをつくった跡。池田町誌には「火屋塀(ひやべい)」と書かれていました。おそらく大火の後、建て直す際にされた工夫なのでしょう。現在では家屋も減り、道幅が広くなったり小路がなくなっていたりするところも少なくありません。

▼昭和の話ですが、飯田では「裏界線(りかいせん)」と呼ばれています。

池田町の歴史ひゃべい

水路にも名残を感じる

池田町の歴史
明治時代の池田町村

明治時代までの池田宿を見ると、真ん中に小さな「町川」が流れていることが分かります。高瀬川から引き入れられたもので、生活用水や防火水として用いられていました。当時の宿場町にはこのように川を渡している姿がよく見られましたが、現在はほとんど見られません。池田宿の町川は明治中期頃に埋め立てられ、道路の両側に分流して暗渠となっています。

海野宿
東御市の海野宿は今でも水路を残している
飯綱町牟礼宿
飯綱町の牟礼宿(当時の復元図)
池田町

現在の水路を見ると、わずかにその面影が感じられました。上の写真は北恥の如意輪観音堂より少し南側にある水路。池田塾を斜めに横切っていました。明治18年の絵図にも同じ位置に水路が見られます。

池田町の歴史
池田町文化財資料館展示室より
池田町

池田宿を東側に入ると、南北に小さな水路が流れています。当時池田宿には「呑堰(のみぜき)」が通っており、飲料水用に使われていました。現在もこうして家屋の下に水路が流れているのは面白いですね。

池田宿の北端「如意輪観音堂」

池田町の歴史

池田宿の北端にあたる如意輪観音堂までやってきました。もう少し北上すると、もう一段上(東)の道まで斜めに上がっていく道があったのだと思います。地形としては糸魚川静岡構造線が南北に走っており、千国街道(塩の道)は断層の上を通っています。さらに北上すると仁科神明宮や佐々屋幾神社が道沿いにありますね。大町宿までは約10km、長い道のりです。

千国街道の旧道を見に行こう

池田町千国街道

最後に会染の旧道へ。

池田宿より4kmほど南に戻ったあたりです。今でこそ大町明科線(県道51号線)で南北にまっすぐ通っていますが、当時はこのあたりを通っていました。写真は旧林中村。田園地帯の中で今でも家屋がいくらか密集して建っており、村の中心部であったことがうかがえます。

暗渠・塩の道・小路・・「池田町」をテーマに歴史散策してきた!

池田町

池田宿の歴史散策をしてきました!ニッチなテーマですが、視点を広げて歩いてみるとたくさんの発見があって面白かったです。宿場町の記事は「宿場・街道」タグでたくさんまとめているので合わせてどうぞ!

池田町に関しては、スキマっぽい記事がたくさんあるのでよかったら別記事もご覧ください。

▼池田町のスキマ記事はこちら

公式LINEの友達募集広告

この記事を書いた人

信州さーもん

スキマな観光ライター。長野県内外、国外を旅します。長野県観光WEBメディア「Skima信州(http://skima-shinshu.com )」代表。道祖神宿場街道滝ダムため池棚田神社仏閣好きな平成生まれの魚。浅い知識を浅いままに増やしています。企画・アイディアを出すのが得意。たぶん。