武田信玄終焉の地?根羽村「信玄塚」は大きな看板が目印!

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戦国時代の武将・武田信玄が最期を迎えた場所には諸説あります。家臣たちが信玄の死を隠していたために、正確な場所や日時がわかっていないのです。

その候補のひとつといわれているのが、長野県の南端にある根羽村。国道153号線沿いを走ると、大きな「信玄塚」の看板を目にするかと思います。

今回はそんな根羽村にある「信玄塚」についてご紹介します。

根羽村「信玄塚」へのアクセス

信玄塚があるのは、長野県根羽村の「横畑」という場所です。大きな「信玄塚」の看板を目印にしましょう。

根羽村が武田信玄終焉の地候補の理由

武田信玄率いる武田軍は1572(元亀3)年頃には三河方面へ進軍していましたが、持病が悪化したために2月から長篠城(現愛知県新城市)にて療養しています。しかし4月になっても治る気配がないため、一旦撤退することになったのです。

武田信玄が「どこで死んで」「どこに埋葬されたのか」について明確な根拠はありませんが、三河から信濃への道中で死没したことは確かなようです。

『甲陽軍鑑』には、1573(元亀4)4月12日に「ねばねの上村と申す所にて御他界」とあります。現在は「横畑」とよばれる地名は、信玄哀悼の意を込めて風林火山の旗を横にした=「横旗」に由来しているともいわれています。

長野県では信玄を弔った伝説の残る阿智村駒場の説が有力視されているほか、平谷村、阿智村の旧浪合村とする説もあります。

甲陽軍艦とは?

武田信玄・勝頼の戦略や戦術を記した23冊からなる軍学書。武田氏家臣で武田四天王ともいわれた春日虎綱が、甥である春日惣次郎・春日家臣大蔵彦十郎らに語り継いだ内容を記したという体裁になっている。

根羽村「信玄塚」へ行ってみよう

武田信玄終焉の地「信玄塚」根羽村

宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、信玄没後の百回忌供養のため寛文年間(1661~1673年)に武田家の縁者が建てたものだとされています。しかし調査の結果、この宝篋印塔は室町時代後期の特徴を持っていることが分かりました。

武田信玄終焉の地「信玄塚」根羽村
宝篋印塔

看板を読んでみると今この地には「信玄塚」はなく、国道153号線の風林火山騎馬隊の大壁画の東方国道敷に埋没しているのだそうです。そういえば大きなモザイク壁画がありました。

武田信玄終焉の地「信玄塚」根羽村
武田信玄終焉の地「信玄塚」根羽村

武田信玄終焉の地?根羽村「信玄塚」まとめ

武田信玄終焉の地「信玄塚」根羽村
信玄塚に鎮座していたかわいいお顔の勢至観音菩薩像

根羽村の信玄塚をご紹介しました。

武田信玄終焉の地は長野県の各地にあり、いくつか巡っているのでまた追々記事にしていければと思います。岐阜県ともアクセスの良い根羽村。大きな看板が気になった方は、ぜひ立ち寄ってみてくださいね。

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この記事を書いた人

信州さーもん

スキマな観光ライター。長野県内外、国外を旅します。長野県観光WEBメディア「Skima信州(http://skima-shinshu.com )」代表。道祖神宿場街道滝ダムため池棚田神社仏閣好きな平成生まれの魚。浅い知識を浅いままに増やしています。企画・アイディアを出すのが得意。たぶん。