芥川龍之介「河童」の舞台!上高地「河童橋」は異世界への入り口?

松本市上高地

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上高地といえば、ランドマークでもある「河童橋」を通らない人はいないでしょう。橋の上からは穂高岳や梓川の美しい景色を望むことができます。

河童橋は最初に架けられたのがいつなのか、実は分かっていません。最初は吊り上げ式でしたが、明治43(1910)年に現在のような木製の吊り橋になりました。今かかっている橋は、そこから数えて5代目のもの。

河童橋という名前の由来には「その昔、ここに河童が住んでいそうな深い淵があった」とか「橋のなかった時代、衣類を頭にのせて川を渡った人々の姿が河童に似ていた」など諸説あるそうです。

架けられた時代も、名前の由来も詳らかではないけれど、人々が当たり前のように通る不思議な「河童橋」。かの芥川龍之介も、そんな河童橋からインスピレーションを受けたのでしょうか。彼は明治42(1909)年8月に友人らと上高地を訪れ、槍ヶ岳に登っています(ということは、彼の見た「河童橋」は吊り上げ式だったのでしょうか?)。その時の様子は『槍ヶ嶽紀行(大正9)』や『槍が岳に登った記』で読むことができます。

芥川龍之介『河童』とは?あらすじをご紹介

三年前の夏のことです。僕は人並みにリユツク・サツクを背負ひ、あの上高地の温泉宿から穂高山へ登らうとしました。穂高山へ登るのには御承知の通り梓川を溯る外はありません。僕は前に穂高山は勿論、槍ヶ岳にも登つてゐましたから、朝霧の下りた梓川の谷を案内者もつれずに登つて行きました。

芥川龍之介『河童』より引用

昭和2(1927)年に発表された小説『河童』の舞台は上高地。筆者が、ある精神病院の患者から聞いた話をまとめた体で始まっています。上高地から穂高岳に登ろうとした主人公は、朝霧の晴れない梓川を登っているうちに、とうとう心が折れて引き返すことに。するとそこへ主人公をもの珍しそうに眺める河童が現れました。

僕は、――僕も「しめた」と思ひましたから、いきなりそのあとへ追ひすがりました。するとそこには僕の知らない穴でもあいてゐたのでせう。僕は滑かな河童の背中にやつと指先がさはつたと思ふと、忽ち深い闇の中へまつ逆さまに転げ落ちました。が、我々人間の心はかう云ふ危機一髪の際にも途方もないことを考へるものです。僕は「あつ」と思ふ拍子にあの上高地の温泉宿の側に「河童橋」と云ふ橋があるのを思ひ出しました。それから、――それから先のことは覚えてゐません。僕は唯目の前に稲妻に似たものを感じたぎり、いつの間にか正気を失つてゐました。

捕まえようとしているうちに意識を失うと、大勢の河童に囲まれているではありませんか。主人公はまるでガリバー旅行記や千と千尋の神隠しのように、河童の世界に迷い込んでしまったのです。主人公は河童の言葉を学び、河童の常識や慣習に触れ、人間世界に戻ると・・。

小説「河童」発表年に自殺した芥川龍之介

上高地に訪れたのは、当時17歳だった芥川龍之介。

小説『河童』を書いたのは18年後、35歳の時でした。1927年3月号の総合雑誌『改造』誌上に発表しています。芥川は1927年1月に秘書を勤めていた平松麻素子と帝国ホテルで心中未遂事件を起こしています。同年7月に服毒自殺。小説『河童』は芥川龍之介晩年の心象をよく表しているといわれています。河童たちを通して人間の矛盾や社会への批判を風刺している作品。

そんな作品に上高地や河童橋を登場させた理由とは、一体何なのでしょうか?若い頃に訪れた神秘的な場所を思い出し、何か考えるところがあったのかもしれません。

芥川龍之介「河童」と上高地「河童橋」まとめ

松本市上高地

芥川龍之介『河童』と、舞台になった上高地「河童橋」についてご紹介しました。芥川龍之介が泊まったとされる「上高地温泉ホテル」にも泊まることができますよ。江戸時代(1830年)開湯の由緒ある温泉に、芥川も心身癒されたことでしょう。

そろそろ紅葉が見ごろを迎えている上高地へ、「河童」ゆかりの地として訪れてみるのはいかがでしょうか。

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この記事を書いた人

信州さーもん

スキマな観光ライター。長野県内外、国外を旅します。長野県観光WEBメディア「Skima信州(http://skima-shinshu.com )」代表。道祖神宿場街道滝ダムため池棚田神社仏閣好きな平成生まれの魚。浅い知識を浅いままに増やしています。企画・アイディアを出すのが得意。たぶん。