統一された電灯、うだつ、桝形に折れた狭い道、田園風景の中に突如現れる建造物群などを見つけると胸が高鳴ります。
「もしかして、宿場町?」
車を停めて看板を探し、地理をチェックして宿場認定。史跡を探したり写真を撮ったり忙しくした後は、帰って文献を読み返します。もちろん未訪の宿場町をあらかじめチェックして出かけることもありました。街道の宿場町をひとつずつ潰すようにめぐることもあります。「かつては宿場町だった」と分かるだけで歴史の折り重なりを感じ、その面影を探してやりたくなるのです。特に観光地化されていない埋もれた宿場町の発見には宝探しのようなワクワク感を覚えました。
宿場町や街道をめぐっていると「宿場町の魅力は?」と尋ねられることがあります。しばらく言葉にできないままでしたが、考えていることを整理したい気分になったので書き連ねることにしました。
宿場町とは?歴史と役割
宿場の歴史と役割
宿場とは言葉通り宿泊する場所を意味し、江戸時代に整備された宿駅を表します。そもそもは中国の駅伝制に倣って、各地域への連絡路に駅を設けたことが始まり。各地の連絡を図るために官道を整備し、馬を走らせて往来していました。そのため馬を休憩させたり乗り換えたりする中継ぎ場が必要だったのです。
江戸時代になると街道はさらに整備され、公家・宮家も泊まる公式の宿屋「本陣」や「脇本陣」なども置かれました。参勤交代の際にも利用され、宿場町は往来する人々から宿泊代や通行料を徴収するなどして利益をあげたようです。
観光地としての街道・宿場町
道と街道の違いは「整備されていたか」「より多くの人が行き交ったか」「ある程度長距離か」などいくつかポイントがありますが、特に江戸時代以降の街道には旅・観光的な要素もあると個人的には考えています。
歌川広重の浮世絵がブームになると、宿場町におけるお土産文化ができたといいます。「ここに行ってきたぞ!」がステータスになったんですね。
宿場の衰退と現在
明治時代に入ると鉄道が開通され、交通の要、人々の交流場だった宿場の役割は失われていきました。その後は姿を変えて栄え続ける街もあれば、ほとんど面影を残さず廃れた(だがそこが良い)場所までさまざま。そんな多様性も宿場町をめぐる上では面白味のひとつです。
宿場町を見つけるポイント4つ
「不自然に密集した建造物群」
宿場町を見つける一番シンプルな方法は、不自然に密集した建造物群。田園風景に突如密集した家屋、商店街を見つけたら「これは宿場かも」となるわけです。また地名「中町」「本町」「横町」なども宿場町の名残。それもそれなりに大きな宿場町であったことが分かります。
当時の工夫が見られる「桝形の跡」
桝形とは敵の侵入を防ぐため、馬が走りづらいクランク形なっている道のこと。城下町に多く、宿場はその名残であることが少なくありません。江戸時代後半に整備された宿場町はまっすぐ、広い道であることもあります。ただ桝形のある場所は城下町か宿場町である可能性は高いでしょう。
あると嬉しい「水路」
宿場町は人々が暮らしていたことから、生活に欠かせない用水路が流れていました。車が走るようになってから多くの水路は塞がれてしまったため、今でも現存している水路を見ると嬉しくなります。
飯綱町のいいづな歴史ふれあい館には、牟礼宿の水路を再現した模型が展示してありました。洗濯などの生活用水に利用されていたことが分かります。水路の作り方はさまざまあり、自然の川を利用することもあれば、町の一大産業として水路の開発に力を入れた町もあったそうです。
宿場町の証「うなぎの寝床」
「うなぎの寝床」とは間口が狭く奥行きが深い間取りのこと。まさにうなぎの寝床のように細長い家屋が並んでいるのが宿場町の特徴です。当時は間口の広さによって税金の額が決まっていたため、できるだけ間口を狭くした結果このような造りになっています。
見た目からは想像できない奥行きの深さにびっくりすることもしばしば。1軒空き地になるだけで不自然な形になるのもかわいいです。
宿場の現存パターン
きれいに復元パターン
宿場町を観光地として利用するために復元しているパターン。長野県だと奈良井宿や妻籠宿、海野宿などが当てはまります。今でこそ多い街並み保存事業ですが、例えば妻籠宿は明治100年記念事業の一環で1968〜1970年に解体・復元されています。時代に先駆けて宿場町の景観保存に努めた妻籠宿は、重要伝統的建造物群保存地区にも選定され国内外から多くの観光客が訪れています。
昭和の街並みパターン
もっとも多い現存パターンのひとつ、昭和時代までは栄えていた宿場町。鉄道駅の有無によっても異なり、例えば鉄道駅が通らなかった千曲市の稲荷山宿はだんだんと衰退したことが分かります。鉄道駅のできた町は昭和の面影も薄れ、駅前通りとして現在も栄えている町も。
また宿場町は昭和時代までに「遊郭」「裏町」として栄えるパターンもあり、今でもスナック街や風俗街として昭和の色を強く残しています。例えば中山道「塩名田宿」は明治時代になると花街として有名になりました。時代に合わせて変化していく町の姿にも注目です。
看板・石碑以外面影ないパターン
場所は同じでも、傍目からは宿場の面影すら感じられない場合もあります。そんな時は看板や石碑を探してどうにか「ここかもしれない」場所を探しますが、例えば信濃町の野尻宿のように看板すらブルーシートに覆われているときも。Googleストリートビューを駆使して断定しました。
ほかにも千国街道「来馬宿」のように度重なる水害により宿場のあった場所ごと存在していないことも。昔は栄えていたらしい来馬宿、こうして石碑だけでもあれば宿場ファンにはありがたいことです。
宿場町の始まり方パターン
元々城下町・門前町だったパターン
宿場町に選ばれる場所の多くは、街道整備以前から人の集っていた町。江戸時代以前に栄えていたもののひとつに、城下町があります。例えば松本城下町や上田城下町、高遠城下町なんかはそのまま「松本宿」「上田宿」「高遠宿」になっていますね。
また長野県には善光寺門前に「善光寺宿」があります。門前町、特に善光寺のように全国から参拝客の訪れるようなお寺周辺には街道が通り、自然と宿場町も開かれました。善光寺街道をはじめ北国街道や大町街道などたくさんの街道が善光寺を経由しています。
峠の手前パターン
軽井沢宿は、中山道最難所のひとつ碓氷峠の手前にあります。全員が無事に峠を超えられる可能性は高くなく、手前で家族に手紙を書く方も多かったとか。碓氷峠の反対側にある群馬県の坂井宿は、国がわざわざ安中・高崎藩の領民を移住させて整備した宿場です。
また江戸時代よりずっと以前から機能していた東山道では、神坂峠麓にある阿智村の信濃比叡 廣拯院(こうじょういん)のような駅寺が宿場のような役割を果たしていました。峠の手前には宿泊はもちろん、怪我や病気の治療ができるしっかりとした施設が必要だったと考えられます。
川端パターン
街道中に川を渡らなければならない場合、その手前には宿場町のあるパターンが多いです。川の氾濫や天気によっては川の手前で足止めを食らうため、その場で泊まれる場所があると便利ですよね。
例えば善光寺街道の丹波島宿は善光寺宿から約2kmと近くにありますが、川を渡れない人々で賑わっていたようです。近くには「丹波島の渡し」があり、犀川の主要な渡し場でした。
また佐久市にある塩名田宿のように、川の両側にそれぞれ宿場がある場合もあります。
宿場町のここがスキ
宿場町の真正面に山
宿場町は計画的に景観が良いように整備されている場合があります。宿場町の通りから真正面にお寺や神社がある、もしくは開けている、あるいは象徴的な山があるなど。当時の浮世絵には見どころになるような景観や名所がピックアップされており、それを目当てに訪れる観光客(旅人)は今も昔も多かったようです。
例えば麻績村の麻績宿は真正面に麻績神明宮、その向こうには冠着山が見えます。長和町の和田宿からは中山道の難所である和田峠を一望できました。下の画像は本陣跡の資料館にて撮影した当時の写真です(撮影許可いただきました)。
「ちょっと入ってみたくなる」横道
宿場町には「ちょっと入ってみたくなる」横道が存在します。車が入れないほどの狭さに歴史の深さを感じ、その宿場町の特徴をうまく捉えているなあと感心します。宿場町にはメインの通りに加え、町の大きさによって横町や裏町が形成されます。横道はそうした通りへと続いており、大抵メインの通りとは空気感が異なるのも魅力。
集められた石造物
各集落のどこかに置かれていた石造物たちが宿場内の一角や社寺に集められていることがあります。道祖神や庚申塔、石碑など信仰心は薄れつつも残しておきたいモノたち。宿場町はそんな迷える石造物たちにとって最後の砦なのかもしれません。
スキマな宿場町への誘い
統一された電灯、うだつ、桝形に折れた狭い道、田園風景の中に突如現れる建造物群。宿場町を構成するひとつひとつに胸高鳴るのはどうしてだろう?場所に残された記憶、折り重なる歴史を感じ、今見えているものだけが全てではないことを実感するからでしょうか。
「もしかして宿場町?」
そんなワクワク感を探しに、あなたもスキマな宿場町めぐりの旅へ出かけてみませんか?
最近の宿場・街道記事はこちら!